第062話 白糸の渓
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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灰縄の吊り橋を渡り終えると、谷の奥に細い水筋がいくつも走っていた。岩肌を流れる水が糸のように光り、日差しの角度で白く煙る。“白糸の渓”。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……水が踊ってる」カイが目を細めた。
「橋も湖も過ぎた。今日は水筋が舌」ライラが掌をかざし、光を受けた。
渓の入口に、腰まで水に浸かった女が一人。腰紐に藍はない。髪は濡れて額に張りついている。
「夜になると糸が鳴く。流れを束ねれば黙る。……通るなら、一本だけ結んでいって」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが水の中に入って石を押さえ、ライラが細い糸を束ねて結んだ。水音が短く鳴り、やがて静かに沈んだ。
「谷へ二、丘へ一。糸は半手束ねる」女が囁く。
「覚えた」ライラは手首で水を切り、骨に角度を刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、乾苔の粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“糸守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、水の音に混ざる。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑い、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
渓の岩に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細いが、水に削られて読めない。代わりに、糸の流れと光の揺れが“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は水糸」ライラが結び目を指でなぞる。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
女が水から上がり、濡れ布を絞ってミーナに渡した。「器に巻けば湿りが長持ちする」
「受け取ります。灰縄と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、渓の陰で短い休止。火は使わず、“糸守りの薄”を裂き、水糸の粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。冷たさが消える」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、渓を抜けるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「糸は眠った。耳は届かない」ライラが囁く。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、渓を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に濡れ布を巻き、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:白糸の渓、流れ束ね、濡れ布。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、水面が一度だけ光った。
星が出る。渓は静まり、道は前へ延びている。
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“糸”や“水の音”で思い出す記憶があれば、一つ教えてください。また明日。




