第061話 灰縄の吊り橋
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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蒼環の湖を離れて丘を越えると、峡の底に一本の吊り橋が現れた。灰色の縄で編まれ、板は乾ききって音を立てる。“灰縄の吊り橋”。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵はなし。鏡もなし。……風が細い」カイが指で縄を弾いた。
「湖も光も過ぎた。今日は橋が舌」ライラが板の継ぎ目を指で押さえた。
橋のたもとに、若い橋番が一人。腰紐に藍はない。掌は縄の粉で白くなっている。
「夜になると灰縄が鳴く。湿りを足せば黙る。……通るなら、霧水を少し塗ってくれ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが布袋から水を取り、ライラが掌で縄を湿らせる。縄が静まり、板が鳴きを止めた。
「谷へ二、丘へ一。水は半手寝かす」橋番が囁く。
「覚えた」ライラは縄の感触を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、光草の粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“橋渡りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、木の匂いと混じる。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻に笑みを置き、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
橋の下に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細いが、水滴で滲んで読めない。代わりに、板の軋みと縄の伸びが“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は橋」ライラが足裏で角度を測る。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
橋番が灰縄の端を短く切り、ミーナに渡した。「器に巻けば温が逃げにくい」
「受け取ります。黒石と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、峡の陰で短い休止。火は使わず、“橋渡りの薄”を裂き、灰縄の繊維を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。喉が冷えを忘れる」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、橋を渡り切るころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「灰縄は眠った。耳は届かない」ライラが囁く。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、峡を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に灰縄を巻き、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:灰縄の吊り橋、霧水塗り、灰縄。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、橋の影がひとつ揺れた。
星が出る。橋は黙り、道は前へ延びている。
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“吊り橋”や“峡谷”で思い出す瞬間があれば、一つ教えてください。また明日。




