第060話 蒼環の湖
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
更新は毎日11:00予定。無理なく、淡々と。
硝光の野を抜けた先に、風も音も吸い込むような静けさがあった。広い水面が円を描き、外縁には青い石が連なっている。“蒼環の湖”。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡は……あり。だが歪んでる」カイが水面を覗き込んだ。
「光も草も眠った。今日は水が舌」ライラがしゃがみこみ、掌に波の冷たさを受けた。
湖畔に、背筋を伸ばした青年が一人。腰紐に藍はない。肩から下げた壺に淡い光が揺れている。
「昼と夜が入れ替わると、水が唄う。石を一つ立て、影を沈めれば黙る。……通るなら、一つだけ起こして」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが青石を選び、ライラがそれを半手だけ起こすように立てた。波紋が広がり、音が吸い込まれる。
「谷へ二、丘へ一。影は半手沈める」青年が囁いた。
「覚えた」ライラは掌で冷たさを押さえ、骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、光草の粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“湖守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、水の匂いと混ざる。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑い、「歩幅を稼ぐ味だ」とだけ。
湖の縁に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細いが、水に滲んで読めない。代わりに、波の呼吸と光の反射が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は水」ライラが波を指でなぞる。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
青年が小壺をミーナに渡した。「器に垂らせば光が残る」
「受け取ります。黒石と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、湖畔の陰で短い休止。火は使わず、“湖守りの薄”を裂き、光草の粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。喉が波を思い出す」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、湖を離れるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「湖は眠った。耳は届かない」ライラが囁く。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、湖を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に光草を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:蒼環の湖、影沈め、光草。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、水が一度だけ波打った。
星が出る。湖は静まり、道は前へ延びている。
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“湖”や“水面の反射”で思い出す風景があれば、一つ教えてください。また明日。




