第057話 蒼影の渡し
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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黒霧の窪地を越えると、風が澄んだ。遠くで水の音がして、やがて細い流れが見えた。両岸の石は青く、影が濃い。“蒼影の渡し”。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……冷たい影の匂い」カイが耳を澄ます。
「霧も塵も過ぎた。今日は水面が舌」ライラが水際にしゃがみ、掌をひたした。
流れのそばに、足を浸した渡し守の女が一人。腰紐に藍はなく、手首には濡れ布を巻いている。彼女は短く顎を動かし、低く言った。
「昼を過ぎると影が鳴く。水を二度切って渡れば黙る。……通るなら、足跡を残すな」
ヴォルクは頷き、御者台の商人に視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが前に出て石を踏み、ライラが合図を見て渡る。靴底が水を切る音だけが短く鳴り、すぐ静まった。
「谷へ二、丘へ一。影は半手浅く読む」渡し守が囁く。
「覚えた」ライラは掌で水を払った。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、乾苔を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“影渡りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、静かに沈む。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑みを置き、「歩幅を稼ぐ味だ」とだけ。
川辺の石の一つに、古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細いが、水に削れて読めない。代わりに、波の線と影の濃さが“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は影」ライラが足跡を消すように歩く。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
渡し守が布に包んだ石片をミーナに渡した。「器に沈めれば水気を逃さない」
「受け取ります。黒石と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、川辺の木陰で短い休止。火は使わず、“影渡りの薄”を裂き、粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。喉が静まる」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、川を渡り切るころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「影は眠った。耳は届かない」ライラが囁く。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、渡しを背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に黒石と青片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:蒼影の渡し、二度渡り、青片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、水がひと筋きらめいた。
星が出る。影は溶け、道は前へ延びている。
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“川”や“橋”で思い出す音を教えてください。また明日。




