第056話 黒霧の窪地
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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白風の裂け谷を抜けると、空が急に重くなった。陽は差しているのに、地面の低い窪みに黒い霧が溜まっている。“黒霧の窪地”。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……息が濃い」カイが眉をひそめた。
「耳も風も遠のいた。今日は霧の肌が舌」ライラが息を浅くして、掌で霧を掬った。
窪地の中央に、ひとりの男が立っていた。顔の半分を布で覆い、腰紐に藍はない。手には黒石の欠片をいくつも持っている。
「この霧は夜に鳴く。石を寝かせて道を塞げば静まる。……通るなら、一つだけ並べてくれ」
ヴォルクは短く頷き、御者台の商人に目をやった。「借りる腹は返す足で」
バルドが石を運び、ライラがそれを半手寝かせるように並べた。霧の鳴きが消え、音が沈む。
「谷へ二、丘へ一。石は半手重ねる」男が囁いた。
「覚えた」ライラは掌で石を押さえ、骨に角度を刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、乾苔を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“霧潜りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、霧の匂いに溶けた。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑い、「歩幅を稼ぐ味だ」とだけ。
窪地の縁に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細いが、霧に溶けて読めない。代わりに、石の並びと湿りが“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は霧」ライラが石を撫でた。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
男が黒石の小片をミーナに渡した。「器に沈めれば温を保つ」
「受け取ります。白砂と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、窪地の端で短い休止。火は使わず、“霧潜りの薄”を裂き、黒石の粉を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。息が軽くなる」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、霧が薄れるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「霧は眠った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、霧の外れで帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に黒石を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:黒霧の窪地、石並べ、黒石。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、霧が一度だけ息をした。
星が出る。霧は眠り、道は前へ延びている。
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“霧”の中で思い出す匂いや音があれば、一つ教えてください。また明日。




