第055話 白風の裂け谷
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
更新は毎日11:00予定。無理なく、淡々と。
黄塵の丘を越えると、空が急に白く光り、風が裂くように吹き抜けた。岩と岩の間を白い砂が走り、声を立てて鳴る。“白風の裂け谷”。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵は飛ぶ。鏡なし。……風が舌を削ぐ」カイが目を細め、口を布で覆った。
「耳も塵も沈んだ。今日は風そのものが舌」ライラが頬を押さえ、息を測る。
谷の狭間に、背の曲がった風受けの老人が一人。腰紐に藍はない。掌は白く、指の間に砂をはさんでいる。彼は風上を顎でしゃくり、低く言った。
「この谷は昼に唄う。夜になる前に砂を抑えれば黙る。……通るなら、結び目を一つ作ってくれ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人へ視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが縄を渡し、ライラが谷壁の根に結びを作った。砂が止まり、風の唄が低く沈む。
「谷へ二、丘へ一。結びは半手寝かす」老人が囁いた。
「覚えた」ライラは指先の砂を払った。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に据える。布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、白粒を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“風止めの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸が短く跳ね、風の音に溶けた。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻に笑みを置き、「歩幅を稼ぐ味だ」とだけ。
谷壁の陰に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。だが砂に埋もれて読めない。代わりに、結び目の角度と風の鳴きが“話す”。
「粉の囁きは眠る。舌は風」ライラが縄を指でなぞる。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
老人が布で包んだ砂をひと握り、ミーナに渡した。「器に入れれば熱を沈める」
「受け取ります。黄土と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、谷の影で短い休止。火は使わず、“風止めの薄”を裂き、白砂を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。喉が風を覚えない」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、谷を抜けるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「白風は黙った。耳は届かない」ライラが囁く。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、谷を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器の中に白砂を敷き、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:白風の裂け谷、風結び、白砂。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、風がやさしく抜けた。
星が出る。風は眠り、道は前へ延びている。
読了感謝。ブクマ・評価が次の筆の燃料になります。
“風の音”で思い出す情景があれば、一つ教えてください。また明日。




