第053話 青苔の谷
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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石灯の峠を背に下ると、湿った風が頬に触れた。谷は深くなく、石の壁に青い苔が広がっている。“青苔の谷”。足を踏めばしっとりと沈み、音は立たない。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……苔の匂い」カイが鼻で湿りを撫でた。
「耳も粉も灯も終い。今日は苔の水気が舌」ライラが壁を指でなぞり、掌に緑を受けた。
谷の底に、腰紐を締めた苔掘りの女が一人。腰に藍はなく、掌は青く染まっている。彼女は谷壁の水筋を顎で示し、囁いた。
「苔が水を吸いすぎて鳴く。根を少し剥がせば黙る。……通るなら、一つ削って」
ヴォルクは短く頷き、御者台の商人に目をやった。「借りる腹は返す足で」
バルドが根を押さえ、ライラが小刀で苔を半手だけ削いだ。水が滴り、音は消えた。
「谷へ二、丘へ一。苔は半手剥ぐ」苔掘りが囁く。
「覚えた」ライラは掌に湿りを残した。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布に抱き、木鉢の底へ据える。布袋の水を手のひら一杯。胸の“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ。塩は影。香草は粉。苔を指の腹だけ削いで加えた。
「“苔守りの薄り”。湯気は出さない。温いで止める」
酸の香りに湿りが重なり、喉が静かに開く。カイがひと口すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑い、「歩幅を稼ぐ味だ」とだけ。
谷壁の陰に古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細いが、水に擦れて読めない。代わりに、苔の滴と湿りが“話す”。
「粉の囁きは溶ける。舌は苔」ライラが水筋を指でなぞる。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切る。「輪になる前に抜ける」
苔掘りが小さな布包みをミーナに渡した。中には乾かした苔片が数枚。「器に敷けば湿りを長く保つ」
「受け取ります。灰や砂と重ねる」ミーナは布に包んだ。
正午前、谷の陰で短い休止。火は使わず、“苔守りの薄”を裂き、乾苔を指の腹だけ散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。水が舌を覆う」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、谷を抜けるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「苔は眠った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、谷を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器に乾苔を敷き、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸と湿りが喉を撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:苔の根剥ぎ、苔守りの薄、乾苔。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、苔の滴が一つ音を立てた。
星が出る。谷は静まり、道は前へ延びている。
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“苔”で思い出す場所や感覚があれば、一つ教えてください。また明日。




