第052話 石灯の峠
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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赤砂の吹き溜まりを背にして進むと、道は緩やかに登り、岩が肩を寄せる峠に出た。岩の上には灯台のように石が積まれ、白い粉で縁が塗られている。“石灯の峠”。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……石粉の匂い」カイが鼻で風を撫でた。
「耳も砂も沈んだ。今日は積み石が舌」ライラが白粉の縁を指でなぞった。
峠の上に、肩幅の広い若い灯守が一人。腰紐に藍はなく、掌は白く乾いている。彼は石を撫で、顎で積みを示した。
「夜になると灯が揺れる。粉を新しく塗り、石を半手寝かせれば静まる。……通るなら、一つ手を貸して」
ヴォルクは短く頷き、御者台の商人へ視線を送った。「借りる腹は返す足で」
バルドが石を動かし、ライラは粉を掌で塗り直す。半手だけ寝かせ、風を噛ませた。石は低く鳴り、やがて黙った。
「谷へ二、丘へ一。粉は半手厚く」灯守が囁いた。
「覚えた」ライラは掌で粉の感触を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で抱き、木鉢の底に置き、布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、白粒を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“灯守りの薄り”。湯気は上げない。温いで止める」
酸が短く跳ね、すぐ落ち着く。カイがひと口すすり、頬の力を落とした。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻に笑みを置き、「歩幅を稼ぐ味だ」とだけ。
石積みの陰に、古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。だが粉で半分は埋もれる。代わりに、灯の揺れと影の長さが“話す”。
「粉の囁きは眠る。舌は石積み」ライラが粉を指で押さえた。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切る。「輪になる前に抜ける」
灯守が白粉の小袋をミーナに渡した。「器の縁に塗れば、匂いが逃げにくい」
「受け取ります。蝋や灰と重ねる」ミーナが頷き、掌で重さを確かめた。
正午前、峠の陰で短い休止。火は使わず、“灯守りの薄”を裂き、白粉を指で散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。灯は揺れない」ミーナが配る。
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、峠を越えるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「石灯は仕舞った。耳は届かない」ライラが囁いた。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、峠を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器の縁に白粉を薄く塗り、“薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸が喉をやさしく撫で、胸の“種”が息を継いだ。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:石灯の粉塗り直し、灯守りの薄、白粉。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、石が一度だけやさしく鳴いた。
星が出る。峠は遠ざかり、道は前へ延びている。
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“峠”で思い出す体験を一つ教えてください。
また明日。




