第044話 板橋の唄止め
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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石盆の冷たさが喉の奥にまだ残る。草は再び背を低くし、浅い湿地を細い板橋が横切っていた。欄干はなく、杭と縄だけ。板の継ぎ目が風で小さく鳴る。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……湿った木の匂い」カイが鼻で風を撫でる。
「舌は紙でも粉でもない。今日は板と釘だ」ライラが耳を傾け、鳴きの筋を目で探った。
橋の入口に、肩章だけ明るい若い橋守が一人。腰紐に藍はない。代わりに、蜂蝋を包んだ布と細い楔を束ねている。彼は板の継ぎ目を足先で押さえ、こちらへ顎をしゃくった。
「湿地が息をするたび、板が唄う。夜にこれが鳴ると、目を呼ぶ。――通るなら、唄を黙らせてくれ」
ヴォルクは御者台の商人に目を送り、短く頷く。「借りる腹は返す足で」
バルドが継ぎ目を持ち上げ、斧の背で根を整える。ライラは蝋を爪の先ほど撫で、釘穴の口に薄く塗って楔を半手だけ打ち込んだ。板が低く息を吐き、鳴きがひと目で細くなる。
「風上側はさらに半手寝かす」橋守が指で示す。
「覚えた」ライラは掌で板を押さえ、骨に角度を刻んだ。
作業の間、ミーナは橋の影で火を猫の尻尾ほどに細くし、黒石で大麦を軽く焙った。布袋の水を手のひら一杯だけ。“旅酵”を指の腹ほど落とし、温石で保つ。塩は影。香草は揉んで粉だけ。
「沸かさない“息の薄り”。温いで止める」
湯気は出ない。酸が短く跳ね、すぐ落ち着く。カイがひと口すすり、頬の力を落とした。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑い、「歩幅を稼ぐ味だ」と一言。
欄干代わりの縄に、古い藍の点が薄く残っていた。粒は細いが、湿気で滲んで読めない。代わりに、杭の傾きと継ぎ目の鳴きが“話す”。
「粉の囁きはここでは沈む。舌は板の角度」ライラが楔の頭を指で撫でる。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切る。「輪になる前に抜ける」
橋守が木札を一枚、商人へ渡した。片面に浅い刻み、裏に水の印。「中ほどで右の車輪を外へ半手。――重さで板が鳴く前に渡り切れる」
「承知した」ヴォルクは車輪の角度を手で示し、隊列の間隔をわずかに広げる。
渡る前に、口を静かに起こす。ミーナは朝の“息の薄”を小さく裂き、石盆の残り水で指だけ湿らせて押し戻し、干し果実の粉を爪の先ほど。香草は粉。油は使わない。
「噛まずに舌で広げる。喉が水を欲しがらない」
バルドが頬に寝かせ、うなずく。橋守は楔の頭を一つ撫で、鳴きが止んだ板に耳を当てた。
渡橋。カイが先に板の唄を目で測り、指を二度。御者台の商人が手綱を短く持ち、右の車輪を外へ寄せる。板の継ぎ目は黙り、湿地の息だけが低く鳴る。ライラが後衛で角度を支え、バルドが斧の柄で振れを抑えた。声は使わない。合図は指で足りる。
渡り切ると、橋守が蝋の包みをもう一つ差し出した。「夜の鳴き止めに。器の口にも効く」
「器は粉と蝋で封を覚えた」ミーナが笑みを目尻に置く。「返礼に“息の薄”を少し」
商人は木札を帆布の内側に結び、短く言う。「帳簿が前へ進む助けになる」
正午少し前、橋影の先の窪みに短い陰。火は使わない。“息の薄”の端を指で潰し、陽の熱だけで柔らげる。塩は影、香草は粉。干し肉の粉を掌にひとつまみ。
「声はいらない。舌で受ける」ミーナが配る。
「潜れる」カイが耳を風に向けたまま頷く。
午後、草の背がさらに低くなり、石杭が点で現れては消える。遠い肩で黒い点が一度だけ揺れ、すぐに沈む。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。背中で板橋の唄はもう聴こえない。
御者台で商人が帳面を開き、短く書く。「本日の勘定:板橋静音・渡橋、蝋と楔、息の薄り。歩幅、維持」
ヴォルクは頷きだけで締めた。「灯は一つ。影は増やさない」
夕刻、低い灌木の陰に帆布を張って風を避ける。胸の“種”へ粉を指先だけ与え、掌で温度を移す。器の縁に蝋を薄く撫で、匂いを結ぶ。湯気は出ない。薄い酸が喉をやさしく撫でた。
道は前へ。足音は静かに揃っていた。
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雨の日にほしくなる“温かい一品”、あなたの定番は? また明日。




