第043話 石盆の水
立ち寄りありがとう。深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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粉宿を離れて半日、草の波が間を開け、黒い石が丸く並んだ窪地に出た。石の面は手のひらほど凹み、古い水筋が細く刻まれている。夜露と雨を集める“石盆”だ。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……湿りの匂い」カイが鼻で風を撫でる。
「耳は粉でも糸でもない。今日は水筋が舌」ライラが石の刻みを目で追う。
石盆の縁に、肩の広い水守が一人。腰紐に藍はなく、両手は黒く濡れている。彼は欠けた導水の溝を顎で示した。
「土が詰まった。道の人、溝を繋ぎ直してくれたら、椀を半ずつ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人へ視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが斧の背で詰まりを掻き、ライラが小枝で角度を半手だけ起こす。泥が抜け、細い筋が石盆へ戻った。水が声を持たずに集まる。
作業の間、ミーナは石の陰で火を猫の尻尾ほどに細くし、黒石で大麦を軽く焙った。布袋の水は手のひら一杯に抑え、胸の“旅酵”を指の腹だけ落として温石で保つ。塩は影。香草は揉んで粉だけ。
「沸かさない“息の薄り”。温いで止める」
湯気は立たない。酸が短く跳ね、すぐ落ち着く。カイがひと口すすり、頬の力を落とした。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑みを置き、言葉を一つだけ。「歩幅を稼ぐ味だ」
石盆の縁に古い藍の点が薄く残っていた。粒は細いが、水で擦れて半分は読めない。代わりに、導水の線と欠けの向きが“話す”。
「粉の囁きは古い。舌は今日、水筋」ライラが指で線を撫でる。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが丘の肩を切る。「輪になる前に抜ける」
水守が木杓子で量り、石盆の浅い方から椀を回した。冷たさは指二本ぶん。ミーナは朝の“息の薄”を小さく裂き、石盆の水で指だけ湿らせて押し戻す。干し果実の粉を爪の先ほど。香草は粉。
「噛まずに舌で広げる。喉が水を欲しがらない」
バルドが頬に寝かせ、静かにうなずく。水守は導水の角度を見て、親指を立てた。
正午前、導水をもう一箇所だけ繋ぎ直す。角度は谷へ二、丘へ一――草の耳と同じ理だ。泥が抜け、石盆が一つ増える。
「明日の朝、ここは満ちる。――灯は上げるな」水守が低く言う。
「灯は一つ。影は増やさない」ヴォルクが受け、帆布を半手だけ下げた。
出立の前、ミーナは器の縁に粉と蜂蝋を薄く撫で、匂いを結ぶ。胸の“種”は新しい粉を指先だけ与え、掌で温度を移す。
「息は続ける。道の上で」
「生きてたら、増やせ」ライラが応じる。
出る。帆布は低く、荷は締めて。石盆の影が背中へ小さくなる。藍の点は遠く、粉の話は水に埋まる。導水の線が肩を越え、草の匂いが戻る。
御者台で商人が短く書く。「本日の勘定:導水復旧 椀半×隊、息の薄り、器口の封。歩幅、維持」
カイは耳を風に向け、「鏡なし、塵細い一本」とだけ。
午後、浅い石列に短い竈跡。火は使わない。朝の“息の薄”の端を指で潰し、日向の温度だけで柔らげる。塩は影、香草は粉。干し肉の粉を掌にひとつまみ。
「声はいらない。舌で受ける」
歩幅は乱れず、影は細いまま延びる。
夕刻、草の肩の裏に帆布を張って風を避け、灯は一つ。増やさない。増やす必要のない夜だ。石盆の冷たさだけが喉に残り、薄い酸が胸の“種”を静かに撫でる。
道は前へ。息は胸に。合図は指で足りる。
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外で飲む一杯、あなたの定番は? また明日。




