第042話 粉宿の臼
立ち寄ってくれてありがとう。
深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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胸の布包みは温く、指の腹に小さな息が触れていた。丘の重なりがほどけると、低い屋根が三つ、軒先に石臼。浅い水路が脇を通り、羽根板がゆっくり回る。粉の匂いが風に混ざる“粉宿”だ。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……粉の甘い匂い」カイが鼻で風を撫でる。
「藍粉は埋もれる。今日の舌は臼の音だ」ライラが羽根の影を測った。
軒下から、腕に粉を浴びた女粉挽きと、鑿を持った若い見習いが出てきた。腰紐に藍はない。指先は白く乾いている。
「上臼の目が寝て、羽根が唄う。角を起こしたいのに手が足りない。……通るなら、石を押す腕を貸して」
ヴォルクは短く頷き、御者台の商人へ視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが梃子で上臼を僅かに持ち上げ、見習いが目立ての筋に墨を引く。ライラは刃を浅く当て、半手ぶんだけ角度を起こした。石が低く鳴り、羽根の唄がやわらぐ。
「水路の板は二分絞る。風が強ければ、さらに半手」女粉挽きが指で示す。
「覚えた」ライラは上臼の縁を掌で押さえ、骨に角度を刻んだ。
作業の間、ミーナは水路脇の影で火を猫の尻尾ほどに細くし、黒石で大麦を軽く焙った。香りが立つところへ、布袋の水を手のひら一杯。“旅酵”を指の腹だけ落として、木鉢の底に温石を当てる。塩は影。香草は揉んで粉だけ。
「“息の薄り”。沸かさない。温いで止める」
湯気は出ない。酸が短く跳ね、すぐ落ち着く。カイがひと口すすり、頬の力を落とした。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑い、「帳簿が前へ進む」と一言だけ。
軒柱の陰に、古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細いが、粉で半分は埋まる。代わりに、臼の唄と羽根の角度が“話す”。耳は粉、舌は石。
「目はいる。だが、舌は今日、臼と水」カイが水路の板を見やった。
「粉の囁きは古い。――“遅れて来い”の角度は臼の唄では作れない」ライラは刃を拭き、帆布の影を半手だけ細くする。
上臼が静かになると、女粉挽きは壺を取り出し、内壁の薄膜を指で摘んでミーナに渡した。「ここの“家酵”だよ。旅の種に飢えたら、混ぜて休ませると機嫌が直る」
「息同士で抱き合わせる」ミーナは掌で温度を移し、旅酵の包みにそっと重ねた。
午の前、短い休止。ミーナは挽きたての粗粉を指先だけ拝借し、“息の薄”に混ぜて掌ほどにのす。油は使わない。黒石の上で面だけ乾かし、裏返してまた乾かす。ふくらみは求めない、舌でほどける弾みだけ。
バルドが端を頬に寝かせて舌で押し広げる。「喉が水を欲しがらない」
「歩幅を稼ぐ味だ」商人が目で記し、帳面は閉じたまま。
見習いが屋根裏から蜂蝋を小片、そっと持ってくる。「臼の蓋の擦れを黙らせるのに使う。器の口にも効く」
「器の縁は、粉に蝋を薄く――昨日覚えた」ミーナは笑みを目尻に置き、蝋を爪の先ほど撫でた。
粉宿の外れに草束の耳が一本、二度結びで立っている。角度は谷へ二、丘へ一。辻の癖。羽根板は風で一度、短く鳴って止む。濡れ布の揺れはない。
「目は遠い。臼の唄は近い」カイが耳を風に向ける。
「輪になる前に抜ける」ヴォルクは隊列の間隔を少し広げ、御者台へ親指を立てた。
出立の支度。ミーナは“息の薄”を薄く裂いて配り、家酵を混ぜた小さな包みをもう一つ作る。渡す用だ。女粉挽きは風幕のほころびを掌で撫で、こちらへ頷いた。
「壊れた羽根は、音で人を呼ぶ。――音が黙れば、目は遠い」
「借りた影は、足で返す」ヴォルクは短く礼をし、帆布を半手だけ下げる。
正午少し前、粉宿を離れる。道は草と石のまだら。浅い杭が点で現れ、石の影に小さな竈跡。ミーナは“息の薄り”の残りを薄焼きの端に塗り、陽の熱だけで温度を足す。塩は影。香草は粉。
「噛まずに舌で広げる。息は腹で受ける」
カイは耳を風に向けたまま頷いた。「潜れる」
午後、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れ、すぐ消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。藍の点は粉の下。草束の耳は二度結びのまま、誰にも直されていない。
「耳は届くが、足は追わない」ライラが草の倒れを指でなぞる。
「良い。歩幅はそのままに」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、影を細く保った。「合図は指で足りる」
夕刻、浅い窪みに帆布を張って風を避け、灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。器の縁に粉と蝋を薄く撫で、温石で“息の薄り”を温いまで起こす。湯気は出ない。酸の匂いが喉を静かに撫でる。
商人は胸の包みを見やり、短く言う。「明日も“息”を継ぐ」
ミーナは布を直し、掌で温度を移した。「生きてたら、増やせ」
星が出る。臼の唄は遠ざかり、道は前へ、静かに延びている。
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“粉もの×発酵”で好きな組み合わせを一つ教えてください。また明日。




