第040話 旅酵(たびこう)の種
立ち寄ってくれてありがとう。
深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
更新は毎日11:00予定。無理なく、淡々と。
浅瀬を越えてほどなく、草の波が低く割れ、石を丸く敷いた小さな輪が現れた。柱が六本、風幕の布が二枚、片方は裂けて縁がほつれている。常設ではないが、人が集う癖のある“風陰の輪”だ。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……粉と酸の匂い」カイが鼻で風を撫でる。
「草の耳でも藍粉でもない。壺の匂いだ」ライラが輪の中央に据えられた土壺を見た。「口は今日、壺でしゃべる」
輪の柱陰から、頬の赤い女が壺の蓋を抱えて出てきた。腰紐に藍はなく、白い玉の代わりに小さな布包みをいくつも提げている。包みは温く、指先で押せばわずかに弾む。
「旅の人? 裂けた風幕を縫ってくれたら、“旅酵の種”を分けるよ。粉と水で息をする、小さな舌だ」
ヴォルクは短く頷き、御者台の商人に目を送った。「借りる腹は返す足で」
バルドが柱を押し起こし、裂け目の縁を布で重ねる。ライラは草糸を二度結びで通し、ほつれを寝かせながら縫い進めた。風幕が風を噛み、音がやわらいでいく。
「半手だけ角度を寝かせると、鳴きが消える」女が指で示す。
「覚えた」ライラは縁を掌で押さえ、結び目の癖を手の骨に刻んだ。
縫いのあいだ、ミーナは輪の風下で火を猫の尻尾ほどに細くし、黒石で大麦を軽く焙った。香りが立ったところへ、布袋の水を手のひら一杯。女が差し出した布包みから、指先ほどの“旅酵”を摘んで落とす。ぷつ、と小さく息をする音。塩は影。香草は揉んで粉だけ。
「沸かさない。温いところで、粉に息をさせる」ミーナが木杓子で底を撫でる。
木鉢の底へ別の温石を置き、湯気の出ない温度に留める。粒がゆるみ、酸の香りが短く跳ねてすぐに落ち着いた。
バルドがひと匙すすり、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑い、「補給が笑う味だ」とだけ短く言った。
縫い終えると、女は壺の口を半手だけ開き、内側の壁から薄い膜を指で摘んで布に包んだ。「これが“種”。粉と水を指の腹だけ与えて、温いところで抱いてやる。明日の朝、また息をする」
「道でも飼える舌か」カイが膜を光に透かす。
「舌というより、息だよ。匂いを運んで、粉を起こす」女は笑い、布包みをもう二つ、ミーナに渡した。「ひとつは失敗した時の代え。ひとつは、誰かに渡す用」
輪の石に、古い藍の点がかすかに残っていた。粒は細い。街道の癖。だが壺の匂いが上に乗り、粉の囁きは半分以上、読めない。
「粉の話は古い。今日は息が舌だ」ライラが壺の蓋を撫でる。
「耳は草でも藍でもなく、手の温度」カイが小さく頷く。
ミーナは焙り麦に“旅酵”を混ぜた薄を半刻だけ置いて、掌ほどにのした。油は使わない。黒石の上へ置き、じゅ、とも言わない温度で面を乾かし、裏返してまた乾かす。ふくらみはしない。だが、薄く柔らかい弾みが生まれる。
「“息の薄焼き”。噛まずに舌で広げられる」
バルドが端を頬に寝かせ、舌で押した。「喉が水を欲しがらない」
「数字が遠くまで運べる味だ」商人が低く言い、帳面は開かず目で記した。
輪の外縁に、草束の耳が一本、二度結びで立っている。角度は谷へ二、丘へ一。辻の癖。藍の点は薄い。濡れ布は揺れない。目は遠い。
「耳は混ざるが、舌は一つ――きょうは“息”」ライラが帆布の角度を半手だけ下げる。
「輪になる前に抜ける」ヴォルクは隊列の間隔を少し広げ、歩幅を揃えた。「合図は指で足りる」
出立前、女が布包みをもう一つ、商人へ。中には、砕いた干し果実が指先ほど。「“息”が弱ったら、これを粉に混ぜると機嫌が直る。甘い話は、息が好きだ」
「道の言葉だな」商人が笑みを目尻にだけ置く。「帳簿が前へ進む助けになる」
ヴォルクは女に短く頭を下げた。「風幕、もう鳴かない」
「鳴かない夜は、目が来ない夜だよ」女は壺に手を当てた。「良い道を」
出立。帆布は低く、荷は締めたまま。“息の薄焼き”を薄く裂いて配り、残りは布で包んで胸に入れる。温いまま、舌で溶ける携行の一枚。藍の粉は遠く、草の耳は近い。濡れ布は揺れない。
「明日の朝、種に粉と水を指の腹」ミーナが念押しする。
「生きてたら、増やせ」ライラがいつもの言葉を返す。
午の少し前、浅い窪みに影を作って短い休止。火は使わない。“息の薄焼き”の端を指で潰し、露の残りで指一本ぶんだけ湿らせる。香草は揉んで粉だけ。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。息は腹で受ける」ミーナが配る。
バルドは頬に寝かせ、静かにうなずいた。
午後、草の背がさらに低くなり、石杭が点で現れては消える。遠い肩で黒い点が一度だけ揺れ、すぐに沈んだ。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいる。だが舌は遠い。
御者台で商人が帳面を開き、短く書く。「本日の勘定:風幕修繕、旅酵の種、息の薄焼き。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、風が壺の口の記憶を撫でていった。
夕刻、帆布の陰に灯を一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。布包みの“種”は温いところで眠り、薄い酸の匂いが喉を静かに撫でる。
道は前へ、息は胸に。歩幅は揃っていた。
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家でよく作る“簡単な粉もの”(例:薄焼き・クレープ・お好み焼きなど)を一つ教えてください。また明日。




