第039話 道標の刻み
寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、
今日の体と心を整えていこう。
更新は毎日11:00予定。無理なく、淡々と。
草の耳が背中で小さく鳴り終えるころ、道は石列にぶつかった。腰ほどの高さの石が等間に立ち、天辺の角がそれぞれ違う向きに削られている。角の欠け方と刻みの深さで、風と谷と水を知らせる“道標”だ。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……石粉の匂い」カイが石の肩を撫でる。白い粉が指に薄く残った。
「刻みが新しいのと古いのが混ざってる」ライラが膝をつき、欠けの向きを目で追う。「白風の前の角度のままが二本」
列の端に、小柄な老人と、肩に鑿をかけた見習いがいた。腰紐に藍はない。指先は白く、粉で乾いている。老人は石の面を叩いて耳を当て、こちらを見た。
「風の癖が変わったのに、人手が足りん。角を一つ戻す。……通るなら、石を起こす腕を貸しておくれ」
ヴォルクは短く頷き、御者台の商人に視線で合図した。「借りる腹は返す足で」
バルドが倒れ癖のある石に梃子を入れ、斧の背で根を整える。ライラは刻みの縁を布で拭い、角の欠けを半手ぶんだけ新しい向きに切り直す。石が低く息を吐くように鳴った。
「谷へ二、丘へ一。白風の名残なら、さらに半手寝かす」老人が指で示す。
「覚えた」ライラは掌で角を押さえ、手のひらの骨に角度を刻みつけた。
作業の間、ミーナは石陰で火を猫の尻尾ほどに細くし、黒石で大麦と草の種を軽く焙った。香りが立つところへ、布袋の水を手のひら一杯、白い酸玉を爪の先だけ崩す。塩は影。香草は揉んで粉だけ。油は使わない。
「“温い和え”にする。麦粉を指で少し落として、舌で広げる固さに」
木鉢の底を温めた石で支え、湯気の出ない温度に留める。ひと匙すくえば、種の甘みが先に立ち、酸が喉を静かに開く。
バルドがひと口、頬の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻にだけ笑みを置いた。「歩幅を稼ぐ味だ」
石の面に、古い藍の点が薄く残っていた。粒は細い。街道の癖。だが風と石粉が上書きして、半分は読めない。
「粉の囁きは古い。舌は今日は石の刻み」ライラが欠けを撫でる。
「目はいる。だが、耳は石に替わった」カイが遠い肩を指で切る。「濡れ布の揺れ、なし」
温い和えが一巡したところで、見習いが麻紐に通した小さな木片を差し出した。片面に浅い刻みが二つ、裏に水の印。
「先の石列、三本目が“浅瀬”。白風の時は渡らないこと」
「受け取る。借りた言葉は、足で返す」ヴォルクは木片を帆布の内側に結んだ。
道標の二本めを起こし終えると、老人が白い粉の小袋をミーナに渡した。「石粉と灰を少し混ぜたものだ。器の口に塗ると匂いが抜けにくい」
「鍋の縁に薄く、ですね」ミーナが頷き、掌で粉の重さを確かめる。「今夜、試します」
ライラは最後に刻みの欠けを布で拭い、角度を半手だけ寝かせた。「風が強まったら、もう半手」
出立。帆布は低く、荷は締めたまま。列の三本目で、刻みが水の形に変わる。浅瀬の印。藍の点はない。粉の話は風に埋まる。舌は石。
「角度どおりに谷を外す」ヴォルクが隊列の間隔を少し広げた。「合図は指で足りる」
カイは耳を風に向け、鼻で草の匂いを撫でる。「塵なし。鏡なし」
午の少し前、浅瀬の手前で短い休止。火は使わない。ミーナは“温い和え”の残りを薄焼きの端に塗り、指で押して“塗り板”にした。水を足さない。舌で溶かす。
「渡りの前は噛まないほうが、足が揃う」ミーナが配る。
「補給が笑う味だ」商人は言い回しを短くして受け取り、頷いた。
浅瀬は石の並びが肩だけ見せ、流れは浅いが速い。カイが先に入って足場を探り、指で“ここ”を示す。バルドが車輪の角度を押さえ、ヴォルクが歩の間を刻む。声は使わない。石の刻みと指だけで足は通る。
渡り切るころ、遠い背で黒い点が一つ、短く動いて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
午後、石列は草に飲まれ、刻みは背中で小さくなる。帆布の陰で、ミーナが老人の粉を鍋の縁に薄く撫で、残りの和えを温いまで起こして舌で溶かす。湯気は出ない。匂いは短い。
「生きてたら、増やせ」ライラがいつもの言葉を返す。
御者台で商人が帳面を開き、短く書く。「本日の勘定:道標の角度戻し・浅瀬通過、温い和えと塗り板、器口の粉。歩幅、維持」
ヴォルクは頷きだけで締めた。「灯は一つ。合図は指で足りる」
夕刻、低い窪みに帆布を張って風を避け、灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。鍋の縁に塗った粉は匂いを捕まえ、温い香りだけが喉を静かに落ちていく。
石の刻みは遠ざかり、道はまた、前へ延びていった。
読了感謝。
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また明日。




