第037話 草耳の辻
寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、
今日の体と心を整えていこう。
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塩皮の白が背中でほどけ、草の緑が音を取り戻した。浅い丘の肩に、束ねた草を縄で結んだ“耳”がいくつも立つ。結びは二度、角度は半手ずつ違う。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……草の匂いに酸が少し」カイが鼻で風を撫でる。
「毛糸じゃなく、草束が舌だな」ライラが結び目の向きを目で追った。「谷へ二、丘へ一。昨夜と同じ合図」
辻の陰から、草縄を肩にかけた若い辻番が一人、指を額に当てて挨拶した。腰紐に藍はない。代わりに、乾いた草の種を小袋に入れている。
「白風の名残で草が倒れた。耳を立て直してる。――通るなら、一本だけ角度を借りていい」
ヴォルクは短く頷き、御者台の商人に目をやる。「借りる腹は返す足で」
バルドが束の根を掘り、楔穴の土をさらう。ライラは草縄を解き、二度結びで半手ずらして締め直す。草が風を噛み、擦れる音がやわらいだ。
「谷へ二、丘へ一。白風なら一手寝かす」辻番が指で示す。
「覚えた」ライラは掌で結びを押さえ、草のきしみを耳に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を猫の尻尾ほどに細くし、黒石で細い根を乾煎りした。香りが立ったところへ、布袋の水を手のひら一杯。湯ではなく、温いまで。焙った大麦をつまみ、指先で砕いて落とす。塩は影。香草は揉んで粉だけ。
「根茶と麦の温い。喉が跳ね返さない温度で」
湯気は出ない。草の甘い香りが鼻先で跳ねて消える。バルドがひと口すすり、頬の力を落とした。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻にだけ笑みを置く。「歩幅を稼ぐ味だ」
辻の石へ、藍の点が三つ、薄く残っていた。粒は細い。街道の癖。だが草束の影が上に乗り、印は半分だけ読める。
「耳は草、囁きは粉。舌は角度」ライラが囁く。
「粉だけの話は、風に負ける」カイが丘の肩を指で切る。「見るのは、草の倒れ方」
根茶が一巡したころ、辻番が小袋から草の種をひとつつまみ、ミーナの木鉢へ指先ほど落とした。噛めば軽く甘い。喉は水を欲しがらない。
「行軍には、噛まずに溶けるやつがいい」辻番が笑う。「白風の後は、とくに」
ミーナは頷き、焙った麦の粉に種を混ぜて薄くのばし、掌で押して“塗り板”を数片作った。油は使わない。舌で溶かす。
「噛まないほど、息が長い」カイが頬に寝かせる。
草束の向きを二本だけ借りる。一本はそのまま、もう一本は半手だけ遅らせる。見る者には“遅れて来い”に見える角度。辻番は何も言わずに頷いた。
「耳は借りる。口は使わない」ライラが草縄を結び終え、砂で足跡を軽く撫でた。
「借りた影は、足で返す」ヴォルクが短く締める。「――出る。谷を渡らず、肩の裏へ」
正午前、浅い窪みに影を作って短い休止。火は使わない。朝の根茶を“湯漬け”寄りに戻し、麦粉の塗り板を指先で崩して落とす。塩は影。香草は粉。酸玉は爪の先だけ。
「温いほうが声を要らない」ミーナが配る。
「数字が遠くまで運べる味だ」商人は低く言い、帳面に一行だけ。
出立。帆布は低く、荷は締めて。草束の耳が風で揺れ、二度結びが同じリズムで鳴る。藍の点は遠く、粉は風に擦れて消えた。丘の肩で濡れ布の揺れが一度、短く出て、すぐに沈む。
「目はいるが、舌は遠い」カイが指をひらりと立てる。
「良い。輪になる前に抜ける」ヴォルクは隊列を二列へ伸ばし、歩幅を揃えた。「合図は指で足りる」
午後、草の波が切れて、浅い石列が現れた。古い境の印だ。石の影に小さな竈跡。ミーナは根茶の残りを温いまで起こし、麦粉の塗り板を指で潰して溶かす。塩は影、香草は粉。湯気は出ない。
「生きてたら、増やせ」ライラがいつもの言葉で応じる。
御者台で商人が帳面を開き、短く書いた。「本日の勘定:草耳の角度借用、根茶と麦粉の塗り板。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの一言に、草束が風の中でやさしく鳴った。
夕刻、灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。根茶の甘い匂いが喉を湿らせ、麦の香りが腹の底に柱を立てる。
草の耳は立ち、道は前へ延びている。
読了感謝。
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あなたの「温かい一皿」の定番を一つ教えてください。また明日。




