第036話 塩皮の窪地
寄ってくれてありがとう。
深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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草の緑がほどけ、地面は白い皮をかぶったように変わった。窪地一面、乾いた光が広がり、足裏で薄い板がぱり、と割れる。風は弱いが、舌に塩の気配。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡……一度だけ、でも地面だ」カイが目を細める。「塩皮の反射」
「耳は粉でなく、光の癖だ」ライラが地面を指で叩く。「藍の印は埋もれる。今日は糸も利かない」
窪地の縁で、白布の頭巾を被った男が二人、木の刃で塩の皮をはがしていた。腰紐に藍はない。代わりに指先は白い粉で光る。ひとりがこちらを見て、顎で土手の欠けを示す。
「堤が痩せた。泥と草でふさぐ。手を貸してくれたら、ひと握り」
ヴォルクは短く頷き、御者台の商人と視線を合わせる。「借りる腹は返す足で」
バルドは斧の背で土を叩き、草を揉んで泥に混ぜ、欠けを埋めた。ライラは端のひびを細い枝でつないで押さえ、指で角度を整える。塩の皮がきしみ、風が音を連れていく。
「割れ目の向きは風下へ半手」男が指で示す。「逆だと、夜に鳴く」
「覚えた」ライラは乾いた皮をひとつ弾き、音を耳に刻んだ。
作業の間、ミーナは窪地の影に小さな火を起こした。猫の尻尾ほど。黒石で麦を軽く焙り、香りが立ったところへ、布袋の水を手のひら一杯。白い酸玉を爪の先ほど崩し、ひと呼吸置いてから、塩を針の先だけ落とす。湯ではなく、温いまで。香草は揉んで粉だけ。
「塩は“影”。酸で喉を起こす。温度は跳ね返さないところで止める」
湯気は出ない。香りだけが短く跳ね、すぐに落ち着いた。バルドが木椀を受け取り、舌の上で転がす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目尻で笑い、ひと口すすった。「補給が笑う味だ」
堤のふさぎが終わると、塩掻きの男が小さな布包みをひとつ、ミーナに渡した。中には指二つぶんの塩粒。光は鈍い。舌にのせれば、角が立たなそうな塩だ。
「夜は鳴らせるなよ。皮が歌うと、目が来る」
「歌わせない」ヴォルクは短く礼をし、帆布の角度を半手だけ下げた。
塩の皮は、耳の役には立たなかった。藍粉はすぐに紛れ、毛糸は白に消える。代わりに、割れ目の向きと、踏み返しの浅さが“話す”。ライラは割れ目の線を目で追い、肩で角度を刻む。
「割れ目の唄は風下に流れる。――今日は縁を借りよう」
「なら、影も薄い」カイが頷く。「鏡は地面で鳴るだけだ」
午の少し前、窪地の外れで短い休止。火は使わない。ミーナは朝の温い酸麦を布で包んだまま手で揉み、麦をほぐして“湯漬け”に寄せる。塩は指で布に触れ、粉だけを移す。香草は粉。鹿干しの粉を掌にひとつまみ。
「噛まずに舌で広げる。水は欲しがらない」ミーナが配る。
カイは耳を風に向けたままひと口すすり、頷いた。「潜れる」
窪地の中央を避けて縁を伝う。足の下で白い皮がぱり、と割れ、音は浅い谷で死ぬ。遠くの肩で光が一度、短く閃いた。鏡ではない。塩皮の反射。目は遠い。舌はない。耳は、割れ目の唄。
「追いは遅い。割れ目が教える」ライラが帆布の縁をつまむ。「角度を保って、足を同じに」
正午、窪地を抜ける。草が少しずつ戻り、白は背中に小さくなる。塩の粉は靴の縁にだけ薄く残った。ミーナは布包みを開き、塩粒を二つだけ袋へ分け、残りを鹿干しに指で揉み込む。「今夜、粉を少し足して保存を伸ばす」
「生きてたら、増やせ」ライラがいつもの言葉で返す。
御者台で商人が帳面を開き、短く書く。「本日の勘定:塩皮の堤補修・塩粒少、酸麦の温い薄、保存の再塩。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの一言に、白い粉が一粒、風の中で転がった。
午後、草の色が濃くなり、風は塩の匂いを手放した。丘の肩で濡れ布の揺れが一度、出て消える。真似る“目”はいる。だが、歌う皮はもうない。耳は遠く、舌は持たない。
「影は増やさない。――縁の歩き方のまま抜ける」ヴォルクが隊列を二列に伸ばす。
バルドは車軸の鳴りを指で撫で、塩の粉を布で拭った。「軋みはない」
夕刻、浅い竈跡に石が三つ。火は猫の尻尾ほど。朝の残りの麦を温いまで起こし、塩を針の先だけ、酸玉を爪の先だけ。香草は粉。湯気は出さない。匂いだけ短く跳ねて、夜に溶ける。
「喉が跳ね返さない」カイが椀を傾ける。
「塩は影のまま。――明日は草の耳に戻る」ライラが見張りの順を配った。
灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。舌に残る塩は角を持たず、酸が喉を開け、焙り麦の香りが腹の底に柱を立てる。
塩皮は遠ざかり、道はふたたび前へ延びていった。
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また明日。




