第035話 草境の関柵
立ち寄ってくれてありがとう。
深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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草の波が切れて、杭と縄で作った低い関柵が現れた。門はなく、縄が二段、毛糸の結びで張られている。白い毛糸は二度結び、柱ごとに半手ずつ角度が違う。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡もなし。……獣脂の匂いが薄い」カイが鼻で風を撫でた。
「舌は紙じゃない。今日は縄と結びだ」ライラが毛糸の角度を目で追う。
柵の陰から、背の高い牧夫が二人出てきた。腰紐に藍はない。代わりに白い玉――乾いた酸玉が二つ、紐に通してある。片方の男が手を挙げ、毛糸の結び目を指してから、草の谷を顎で示した。
「今夜、風が変わる。柵の角度をずらす。――通るなら、手を貸せ」
ヴォルクは短く頷き、御者台の商人に視線を送った。「借りる腹は返す足で」
バルドは杭の根を掘り、楔穴の土をさらう。ライラは結び目を解き、二度結びの半手ずらしで張り直した。毛糸が風を噛み、音が少し柔らかくなる。
「角度は谷へ二、丘へ一。風が東なら、半手戻す」牧夫が指で示す。
「覚えた」ライラは結びを掌で押さえ、指に毛糸の感触を刻んだ。
作業の間、ミーナは火を猫の尻尾ほどに細くし、黒石で粟を乾煎りした。香りが立ったところで、指先ほどの羊脂を一滴。粟が表面でわずかに光り、音は立てない。布袋の水は手のひら一杯を限度に、砕いた粟をまとめて親指大の小さな団子にし、石の上で面だけ焼く。
「水は少なく、脂は薄く。香草は揉んで粉だけ。塩は影」
団子は片面を短く焼いて返し、火から離して休ませる。中は温かく、脂は走らない。匂いは短く、風にすぐ溶けた。
バルドがひとつ摘み、頬の内側で押し広げる。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は笑みを目尻にだけ浮かべた。「歩幅を稼ぐ味だ」
柵の外縁に、小さな藍の点が三つ、薄く残っていた。粒は細い。街道の癖。だがここでは毛糸の印が上に乗る。耳が混ざる場だ。
「耳は粉と糸。舌は縄の角度」ライラが囁く。
「なら、目は足場で借りる」カイは草の谷を指で線にした。「今夜の見張りは丘の肩だろう」
粟の小団子は薄く広く分けられた。牧夫は酸玉を一つ割り、ミーナの鉢に親指ほど崩して落とした。白く濁った酸が粟の香りを支える。湯気は上げない。温いだけ。
「喉が跳ね返さない」カイがひと口すすって頷く。
「数字が遠くまで運べる味だ」商人が低く言い、帳面に短く記す。
昼前、縄張りは一巡で張り替えが終わった。毛糸の二度結びは、谷へ二、丘へ一。牧夫は白い玉をひとつ、ミーナの掌へ押し込む。
「風が悪くなる前に抜けな。白風の口は、夜に開く」
「角度は覚えた。――借りた影は、足で返す」ヴォルクは短く礼をした。
出立。帆布は低く、荷は締めて。車輪は歌わない。関柵の毛糸が風に合わせてわずかに唸り、遠くの谷で羊の鈴が短く鳴った。藍の粉は道に薄い。代わりに毛糸の小片が草の根に絡む。
「耳は糸に寄る」カイが低く言う。
「舌は縄。――紙はしまう」ライラは帆布の角度を半手下げ、影を細くした。
正午の少し前、浅い窪地に影を作って休止。火は使わず、朝の粟団子を指で潰し、羊脂の残りを爪の先ほど溶かして絡め、香草の粉をひとつまみ。塩は影。
「噛まずに舌で溶かすほうが、喉が水を欲しがらない」ミーナが配る。
商人は木片を掌で温め、口に落とした。「帳簿が前へ進む」とだけ。
午後、丘の肩に濡れ布の揺れが一度、短く出て消えた。真似る“目”はいる。だが毛糸の角度は、谷へ二、丘へ一のまま。追いは遅い。
「目は増えるが、舌は遠い」ライラが肩を一度だけ回す。
「良い。輪になる前に抜ける」ヴォルクは隊列を二列に伸ばし、歩幅を揃えた。「合図は指で足りる」
夕刻、浅い竈跡の石が三つ。火は猫の尻尾ほど。粟の粉の残りを温い水で伸ばし、酸を爪の先だけ。香草は粉。湯気は出さない。匂いは短い。
「生きてたら、増やせ」ライラがいつもの言葉を返す。
御者台で商人が帳面を開いた。「本日の勘定:関柵張替、毛糸二度結び、粟の小団子。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、毛糸が風の中で一度だけ、やさしく鳴った。
灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。粟の香りが喉を湿らせ、羊脂の微かな温度が腹の底に柱を立てた。
風は角度を変え、道は前へ延びている。
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最近“噛まずにいける軽食”ってある?
一つ教えてください。また明日。




