第033話 風見塔の灯
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ、
今日の体と心を整えていこう。
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草の背が低く、風は一方向にだけよく伸びた。丘の重なりの先に、石を積んだ細い塔が一本。頭には木の羽根、胴に窓が三つ。昼は羽根で風向きを、夜は灯で谷の口を知らせる――風見塔だ。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……油の匂いが薄い」カイが鼻を動かす。
「灯は昨夜で尽きたか、芯が痩せてる」ライラは塔の影を測る。「口は秤じゃない。今日は灯が舌だ」
塔の根元に、肩章の色だけ明るい若い見張りが一人。腰紐に藍はない。代わりに、白い毛糸が二度結びで柱にかけてある。彼は塔の窓を見上げ、こちらを見て、少しだけ喉を動かした。
「通るなら、羽根の軋みを黙らせてくれ。夜に灯を上げるのに、音が出ると目を呼ぶ」
ヴォルクは御者台の商人に目をやり、短く頷く。「借りる腹は返す足で」
バルドが羽根の軸を外し、木粉を払い、麻油を指で薄く回す。楔穴をさらい、斧の背で新しい楔を打ち込む。木が低く鳴り、風を噛む音が穏やかになった。
ライラは窓の芯を解き、焦げた端を切り揃える。芯は細く、油は少しだけ残っている。
その間、ミーナは塔の陰で火を猫の尻尾ほどに細くし、黒石で大麦を焙った。香りが立ったところへ、布袋の水を手のひら二杯、白い酸玉を爪の先ほど。湯ではなく、温いまで。塩は影。香草は揉んで粉だけ。
「焙り麦の酸湯。喉が跳ね返さない温度で」ミーナが木杓子で底を撫でる。
商人がひと口すすり、目尻で笑った。「歩幅を稼ぐ味だ」
バルドは粉をひとつまみ指に取り、湯で溶かしてから口へ運ぶ。「軽いのに、腹に柱が立つ」
塔の基壇の石に、藍の粉が薄く乗っていた。粒は細い。街道の癖だ。だが、毛糸の二度結びも近くに残っている。
「耳が混ざってる」ライラが膝をつき、粉を指で払う。「街道の粉と草原の糸。舌は――今夜の灯」
「灯は口だが、風は耳になる」カイが塔の羽根を見上げる。「今夜、増える目は丘の肩」
焙り麦の酸湯は一巡で配られ、残りは布で包んで携行に回す。見張りの若者は芯の箱を抱えて戻り、短く頭を下げた。
「羽根が静かなら、灯が遠くまで持つ。……通行はただでいい。夜、北の谷に狼火が上がったら、灯は二つにする。昼は羽根の角度で知らせる」
「角度は?」ヴォルク。
「北で四分、東で二分。南は灯なし、風任せ」若者は毛糸を指に巻き、二度結びを示した。「風が変わったら、結びを半手ずらす」
昼前、塔の影で二度目の小休止。火は使わない。ミーナは朝の酸湯を「湯漬け」に変えるため、焙り麦の残りを指先で潰し、温い湯をほんの少し足して混ぜた。香草は粉、塩は影。干し魚の粉を各自の掌にひとつまみ。
「温いほうが息が長い」ミーナが言う。
「数字にやさしいな」商人は言い回しを飲み込んで、ただ頷いた。
塔を離れる前、ライラは毛糸の結び目を若者に見せて確認した。「二度を半手ずらす、合図は同じ。――夜の灯は一つのまま進む」
「今夜、風が荒れなければな」若者は羽根を見上げる。「白風の名残が、また口を開くことがある」
出立。帆布は低く、荷は締めて。羽根の音は静かで、塔の窓は陽をはねた。道は草の波に沈み、藍の粉は見えない。代わりに白い毛糸の小片が草の根に絡んでいた。二度結び。谷の向きが変わった印だ。
「耳は糸、舌は灯、目は丘」カイが指で線を引く。
「目が増える前に、谷を抜ける」ヴォルクは隊列の間隔を少し広げ、歩幅を揃えた。「合図は指で足りる」
午後、北の肩で黒い点がひとつ、短く動いて消えた。鏡ではない。濡れ布の揺れ。白風の真似。こちらの歩幅は変えない。ライラは帆布の位置を半手下げ、影を細くした。
日が傾く。草の谷の底に、石を三つ積んだだけの浅い竈跡。ミーナは酸玉をひとかけ温い水で崩し、朝の焙り麦と合わせて薄く伸ばした。香草は粉、塩は影。湯気は出ない。匂いだけ短く跳ねて消える。
「声を上げるのは、灯の仕事」カイが弓袋を軽く叩く。「今夜は一つで足りる」
灯は一つ。塔の窓は遠くで点になり、羽根は風と仲直りした音を立てる。毛糸の結び目は、谷の口で半手だけずらされていた。合図は揃っている。
御者台で商人が帳面を開き、短く書く。「本日の勘定:風見塔整備、油・芯手当、焙り麦の酸湯。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、塔の羽根が一度だけ、やさしく鳴いた。
夜、帆布の陰に灯を一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。酸の薄い匂いが喉を湿らせ、焙り麦の香りが腹の底に柱を立てた。
風は穏やかで、灯は遠くで、道は前へ延びている。
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また明日。




