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饗狼傭兵団戦記 〜腹を満たすまで〜  作者: 影道AIKA


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第032話 草原の酸

立ち寄ってくれてありがとう。

深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。

更新は毎日11:00予定。無理なく、淡々と。

井戸の石目盛りの感触が掌にまだ残っていた。白風は遠のき、草原の匂いが戻る。浅い丘がいくつも重なり、羊杭の穴が点々と並ぶ。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。

「塵なし。鏡もなし。……毛の匂い」カイが鼻で風を撫でた。

「放牧の影だ。道は口数が減る」ライラは草の葉先を折り、風に立てる。「音は届きにくい。目で進む」


 丘の肩を越えると、白い布を重ねた低い天幕が三つ、草の谷に身を寄せていた。羊は見えない。柱の根本には、藍の糸ではなく白い毛糸が二度、ゆるく結ばれている。耳の代わりに、ここでは匂いが旗なのだろう。

 天幕の前で、頬の赤い女が手を挙げた。腰紐に藍はない。代わりに、小さな白い玉を紐に通している。

「旅の人。水は多くないけれど、があります」

 商人が会釈し、油の小壜と薄焼きを二枚、布の上に置く。「道の影を少し借りたい。匂いは外に出さない」

 女は白い玉をひとつ手に取り、親指で割った。指の間に、乾いた酸の香りが立つ。「羊乳を乾かした玉。水で崩せば、喉が軽くなる」


 火は猫の尻尾ほど。ミーナが木鉢に手のひら二杯の水を落とし、白い酸玉を指で揉んで崩した。うすく白濁した水に、焙っておいた大麦を少し、針の太さに削った鹿干しをさらに少し。塩はほとんど使わない。香草は揉んで粉だけ。

「酸は喉を起こす。塩は刺さない程度に」ミーナは黒石を温め、鉢の下に置いて温度を移した。「湯まで上げない。温い呼吸で足が持つ」

 湯気は出ない。香りだけが短く跳ねて消えた。バルドが木椀を受け取り、ひと口すすって肩の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」

 女は頷き、白い玉をもう一つ、ミーナの掌に滑らせた。「道の人は、酸で歩く」


 天幕の脇、木の杭に毛糸が二本、別々の角度で結ばれていた。ライラが膝をついて結び目を見分ける。「二度結び。畑筋と同じ癖……でも、これは風向きの印だ」

「耳は糸でなく、風の縁」カイが谷の口を指でなぞる。「見張りは丘の肩」

 ヴォルクは商人に目をやり、短く頷いた。「紙はしまう。今日は腹で通す」


 酸の薄湯が一巡した。商人は木椀を両手で包み、目尻にだけ笑みを浮かべる。「歩幅を稼ぐ味だ」

「数字が遠くまで運べる、でいいんだろ」バルドが冗談めかして言い、商人は肩で笑った。言い回しは短く、風に溶けていった。

 礼に薄焼きを一枚、天幕の子に渡す。子は端を噛み、白い玉を指でひとつ数えてから、谷の外の風に小さく手を振った。糸の代わりに、匂いと手の形で話が行き来する。


 出立の前、ライラは毛糸の結び目のひとつを指で少しだけずらした。風向きの印は、谷の裏へ戻る角度に変わる。逆巻きを避ける合図だ。

「耳は借りる。口は使わない」ライラが立ち上がる。

「借りた腹は、足で返す」ヴォルクは天幕の女に短く頭を下げた。「影を借りた」

「風が優しいように」女は白い玉を一つ、空に投げて受け取った。「匂いで道が割れますように」


 丘を出ると、草は背を低くした。鏡はない。塵もない。風だけが道を描いている。帆布は低く、車輪は歌わない。商人が御者台で帳面を開き、筆を置く。紙は今日、あまり役に立たない。

 正午を少し過ぎた頃、浅い窪みに影を作って休止。ミーナは白い酸玉をひとかけ、布袋の水に落として崩し、朝の残りの焙り麦を少しだけ戻す。香草は粉、塩は控えめ。温度は、手の甲で温いと感じる程度まで。

「熱すぎると喉が跳ね返す。温いほうが息が長い」ミーナが木椀を配る。

 カイは耳を風に向けたまま、ひと口すすった。「……潜れる」


 午後、丘の肩に黒い点がひとつ現れ、すぐに消えた。鏡ではない。濡れ布を掲げる手だ。白風の名残を真似るやり方。こちらの歩幅は変えない。ヴォルクは隊列の間隔をわずかに広げ、谷の裏へ滑らせた。

 毛糸の目は近いが、舌は遠い。藍の粉はここでは耳にならない。風が話を運び、匂いで曲がり角が決まる。


 日が傾く。小さな水たまりが指二本ぶん、草の根に溜まっていた。飲むほどではないが、布を湿らせるには足りる。ミーナは鍋を拭き、残りの酸玉を半分だけ崩して薄湯を作った。香草は粉、塩はほんの影。鹿干しの粉を各自の掌にひとつまみ。

「酸は喉を開ける。粉は足を支える。どちらも声を上げない」ミーナが言う。

「声を上げるのは、鏡と角笛の仕事だ」カイが弓袋を軽く叩く。「今日は必要ない」


 夕刻、帆布を低い灌木の陰に張って風を避け、灯を一つだけ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。酸の薄い匂いが喉を湿らせ、焙り麦の香りが腹の底に細い柱を立てた。

 商人は帳面を開き、短く書く。「本日の勘定:酸玉の薄湯、毛糸の風印、歩幅の維持」

 ヴォルクは頷くだけで言葉を足さなかった。紙は静かに閉じられ、夜の底に匂いだけが短く残る。

 星が出た。風はやさしく、道は前に延びている。

読了感謝。

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朝は温かい飲み物? 冷たい飲み物? また明日。

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