第030話 白風の口
立ち寄りありがとう。深呼吸をひとつ、
今日の体と心を整えていこう。
更新は毎日11:00予定。無理なく、淡々と。
草原は浅く波立ち、砂礫の帯がところどころ顔を出していた。昼が近い。遠くの空が白く擦れ、地平の縁が少しだけ滲む。帆布は締め、荷は低く。合図は指で足りる。
「塵が細く三本。距離はあるが、筋が太る速さが均一じゃない」カイが目を細める。
「白風だな」ライラが草の葉先を一本折り、風に立てた。「午後、口が開く。飲み込まれる前に潜る」
道筋の杭に近づくと、藍の粉で打った小さな点が、途中から途切れていた。砂紋が上書きしている。挽きは粗く、市の耳と同じ癖。だが風が話を消していく。
「耳はあるが、砂に埋まる」ヴォルクは御者台の商人へ視線を送り、短く頷く。「紙は見せない。今日は足で通す」
商人は印束を腰袋に沈め、帆布の綱を半手だけ下げた。「数字は隠し、荷は低く」
白く霞む前に、一度だけ腹を整える。火は猫の尻尾ほど。ミーナが大麦を平たい黒石で乾煎りし、香りが立ったところで布袋の水を手のひら二杯だけ。薄い湯に柑橘の乾いた皮を爪先ほど落とす。
「焙り麦の薄茶。喉が水を欲しがらない温度で」
湯は静かに息をし、石の上で温度が回る。干し肉を針の太さに削って別の小鉢でから煎りし、粉にしたものを木片に少しだけ取って配る。
「茶をすすって、粉を舌で溶かす。水より、息を長くするやり方」ミーナが説明する。
バルドがひと口すすり、粉を舌の上で転がした。「軽いが踏ん張りが利く」
「数字が遠くまで運べる味だ」商人が笑みを薄くした。
帆布は倒し気味に、荷は腹の高さより下。車軸に布を回し、砂の入りを抑える。顔には湿らせた布。合図は、指から手首へ。肘の角度で“止まれ”と“潜れ”を分ける。
「白風の口は、音を食う」ライラが低く言う。「声は使わない」
カイが先行して斜面の肩を確かめ、指を二度だけ振る。潜れ。
風が一段、重くなった。砂粒が頬を打ち、世界の輪郭が白く擦れる。視界は十歩。足は影だけを追い、呼吸は布の内側で細く刻む。帆布の縁が砂を受け、低い唸りが隊列の腹で共鳴した。
白の中、黒い点が一度だけ揺れた。近い鏡――ではない。濡れ布の端を誰かが掲げ、合図を真似している。目はいる。だが口は遠い。砂が言葉を削る。
「右二歩、下へ一」ライラが肘で示す。隊は砂紋の谷へ潜り、風の刃をやり過ごした。藍の粉は、ここでは耳にならない。砂がすぐに塗り潰す。
半刻ほど潜り続け、白が薄い灰へ変わった。風の口が背中へ回る。帆布をそっと起こす。砂粒が布から落ち、音が少しだけ戻る。
「鏡、いまはない」カイが布を外し、弦を軽く撫でる。「塵の筋も細くなった」
「風の端を踏み越えた」ヴォルクは短く告げ、御者台の商人に親指を立てた。「角度を戻す。草の筋を拾う」
影のある窪みで、もう一度だけ薄茶。今度は焙り麦に柑橘皮を少し増やし、香りを鼻先で弾ませる。干し肉粉は各自の掌にわずか。塩は使わない。
「喉が水を欲しがらない」ミーナが声を落とす。
「白風の後は、塩の角が刺さるからな」バルドが粉を舐め、肩の力を落とした。
砂が落ち着くと、道の杭が再び見えた。藍の点は消えたまま。印の結びも、粉の挽きも、今日は役に立たない。風が耳を閉ざした。
「耳が閉じれば、目が増える」ライラが斜面の稜を指でなぞる。「午後の見張りは丘の肩に乗るはず」
「なら、肩の裏から抜ける」ヴォルクが隊列を二列へ伸ばし、歩幅を揃える。「帆布は低く。合図は手首で足りる」
丘の裏側に回り込むと、草の匂いが戻ってきた。砂は薄く、石は角を丸める。帆布の陰が短くなり、車輪の音がわずかに歌う。商人が御者台で帳面を開き、短く書いた。
「本日の勘定:白風通過、焙り麦薄茶、干し肉粉。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、白い砂が一粒、笑いのように転がった。
夕刻、遠くに低い屋根の列。家畜の影は薄い。水は指三本ぶん。布を湿らせ、鍋を拭い、麦をひとつかみ焙って今日を閉じる。
「生きてたら、増やせ」ライラがいつもの言葉を返す。
灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。焙り麦の香りが短く残り、やがて夜の底へ沈んだ。
白風の口は遠ざかり、道はまた、前へ延びていった。
読了感謝。
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最近よく使う「乾物」を一つ教えてください。
また明日。




