第028話 石垣の間者
寄ってくれてありがとう。
深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
更新は毎日11:00予定。無理なく、淡々と。
朝の光が斜めに差して、畑を区切る石垣の筋が長く伸びた。土は乾いているが、低い草の匂いは昨日より濃い。遠くに小さな柵、牛馬の影はない。帆布は締め、荷は見えるように。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡もなし。……風に粉の匂い」カイが指先で石の角をなぞる。藍の粉が、ごく薄く爪に付いた。
「峠とも税門とも違う粒だ」ライラが膝をつき、粉を指で潰す。「挽きが粗い。街道筋より、畑側の耳」
「耳が多くても、口はひとつ。こちらは鍋で話す」ヴォルクは御者台の商人と目を合わせ、短く頷いた。
石垣に沿って細い獣道が走っている。足は軽い。子どもの幅。曲がり角の根元に、藍で指先だけを染めた印が二つ、反対向きに置かれていた。
「伝い歩きの合図。こっちを見て、向こうに知らせる」カイが囁く。
「消さない。向きをずらすだけ」ライラは印の片方を指で撫で、角度を半刻ぶん回した。見る者には“遅れて来い”と読める。足は呼吸を合わせる時間を得る。
午の前、石垣の切れ目で陰を拾い、休止。火は猫の尻尾ほど。ミーナが小鍋に油をひと滴だけ落とし、石垣の根元で摘んだ細い葉と、拳ほどの小芋を入れて蓋を当てる。水は手のひら二杯。塩は指先。
「まず蒸らして甘みを出す。香草は揉んで粉にして最後」ミーナは蓋の上に温めた平石をそっと乗せた。「水が少ない日は、匂いで喉を起こす」
小芋がほぐれる音はしない。蒸気の白が蓋の端で薄く逃げ、葉の青い匂いが鼻先で跳ねて消えた。
バルドが木椀を受け取り、ひと口すすって肩の力を落とす。「軽いのに、腹に柱が立つ」
「喉が水を欲しがらない」商人が頷き、帳面に短く書く。「小芋と石垣草の蒸し湯。数字が遠くまで運べる味」
配膳の最中、石垣の向こうで小石が転がった。子が一人、影だけ見せて、藍の粉で指を染めている。足は細く、逃げる癖がない。ライラは目だけで数え、声を出さない。
ヴォルクは木椀を手にしたまま、石の上に短い線を三本、ゆっくり引いた。距離と方角。子はそれを見ると、粉の指で同じ線を描き、走り去った。
「噂の目は、噂を運ぶ」カイが木椀の縁に唇を当てる。「けれど、向きを選べる」
「選ぶのは、こちらの歩幅だ」ヴォルクの声は低い。「輪になる前に、抜ける」
午後、畑筋はやがて細い水路に変わり、石積みの堰が現れた。堰の陰、苔の上に藍の糸の切れ端。三度の縒りだが、結びが甘い。昨日の税門に似ている。
「畑の耳と街道の耳が混ざってる」ライラが糸を砕いて苔に揉み込む。「口は一つじゃない。だからこそ、音を分ける」
「紙は見せる。鍋は匂わせる。足は通す」商人が笑みを薄くした。
水路沿いに二刻。低い屋根の小屋が現れ、扉の隙から粉の香り。藍ではない、小麦の粉だ。臼の音が微かに響く。カイが指をひらりと立てる。「輪ではない。家の音」
小屋の前で、腕まくりの若者が臼から顔を上げた。腰紐に藍の糸――二度の結び。老女の集落に近い癖だ。ヴォルクが短く会釈し、商人が油の小瓶と粉を見せる。
「薄焼きを置いていきたい。水と石の影を貸してくれ」
若者は臼の粉を指で捻り、こちらの帆布と弓を見比べ、頷いた。「煙、上げるなよ」
石の影で、薄焼きが数枚。今度は香草を生地に練り込まず、焼けた面に指で粉を振っただけにする。香りは軽く、喉に残らない。若者は端を噛み、「腹に悪くない」とだけ言った。彼の腰紐の藍糸は、いつのまにか外され、柱の釘に引っ掛けられている。
「耳は壁に掛けておけ、って婆さんに言われたんでね」若者が肩で笑う。「歩く人の足が通れば、粉が売れる」
「道は腹に報いる」商人が短く返し、瓶の残りを置いた。
小屋を離れる頃、石垣の肩で鏡が一度、短く閃いた。遠い。輪の形にはならない。藍の粉の印は、午前にこちらがずらした角度のまま、誰にも直されていなかった。
「耳はあっても、舌が追いつかない」カイが弓袋を軽く叩く。
「良い。今は風下に寝る。灯は一つ」ヴォルクが決める。
夕刻、石垣の陰に帆布を張り、火は猫の尻尾ほど。朝の残りの小芋をつぶして湯でのばし、薄焼きの端をちぎって落とす。塩は指先、香草は揉み粉ひとつ。
「歩いた分だけ、味は薄くていい」ミーナが木椀を配る。
「生きてたら、増やせ」ライラがいつもの言葉を返す。
商人は帳面に書く。「本日の勘定:蒸し湯、小芋粥、薄焼き交換、畑筋の耳。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの一言に、小さな笑いが落ちた。
夜気は冷たい。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。小芋の甘みが喉を通り、石垣の陰で息が揃う。
藍の耳は多い。だが、彼らの歩幅はひとつだった。
読了感謝。
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最近ハマっている保存食を一つ教えてください。また明日。




