第026話 土壁の集落
立ち寄ってくれてありがとう。
深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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石橋を離れて半刻、土壁の低い集落に着いた。門は開いているが、人影は薄い。井戸のそばに干し草の山、納屋の扉は半分だけ。旗は外され、竿の先だけが新しい。帆布は締め、荷は見えるように。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡もなし。……風に油の匂いが少し」カイが鼻で空気を撫でる。
「なら、紙より先に腹の話を通す」ヴォルクは短く言い、御者台の商人と視線を合わせた。
門の内で、小柄な老女が腕を組んで立っていた。背は曲がっているが目は強い。腰紐に藍の細糸――三度の縒りではない、緩い二度だ。
「旅の者か。水は浅いよ。干し草は出せるが、銀は高い」
商人が会釈し、布袋から小麦粉と乾いた香草、油の小瓶を見せた。「食えるものを置いていく。水と干し草と、納屋の影を一晩」
老女は油の瓶を光に透かし、粉の色を確かめる。目が少しだけ柔らかくなった。「――竈は町はずれ。火は細く、煙は上げるな」
竈は土壁の外れにあった。半分埋まった大きな壺を逆さにして、平たい黒石が据えてある。風下は灌木で囲われ、匂いが外へ流れすぎない工夫だ。バルドが石の温度を上げ、ミーナが粉を水でまとめる。
「今日は薄焼き。水は少なく、油で伸ばす」ミーナは塩を控えめに、香草を指で揉んで粉へして、生地に練り込む。「香りで喉を起こす。塩で喉を干さない」
掌ほどにのした生地を黒石に置く。じゅ、と短い音。油が面で薄く光り、縁が持ち上がる。裏へ返すと、香草の香りが鼻先で跳ね、すぐに落ち着いた。
集落の子が二人、影に半分隠れて覗いている。ライラは目だけで数えて、何も言わない。井戸の縁に、藍の粉が指先ほど付いていた。昨日と同じ癖ではない。粉は粗い。
「藍の耳は多い。結びも粉も、全部が同じではない」ライラが小さく囁く。
「耳が多くても、口は一つ。こちらの口は鍋だ」ヴォルクは竈の風下に位置を取り、門の外を一度だけ見やった。「鏡も塵もない。――今は食わせる」
薄焼きが次々に焼ける。ミーナは焼けた面に油を指でうっすら伸ばし、香草粉を一つまみだけ落とす。焦がさない、香りだけ。老女が一つ受け取り、歯で端を噛んだ。目尻の皺がわずかにほどける。
「喉が渇かない味だね」
「長く歩くためのパンです」ミーナが頷く。「薄く、軽く、腹は静かに起こす」
商人が微笑み、老女に油の瓶の残りを差し出した。「数字が遠くまで運べる味でしょう?」
「数字は嫌いだが、腹は分かるよ」老女は笑い、井戸の桶に手をかけた。「手のひら二杯ずつ、水を」
薄焼きは隊と子ら、老女へ薄く広く分けられた。カイはひとかけを頬に寝かせ、耳を風に向ける。「……足音、二。軽い。門の柱で止まってる」
「見張りか、噂の目か」ライラが竈の火を猫の尻尾ほどに絞る。「煙は上げない。影は長く」
バルドは干し草を荷の下に回し、車軸の鳴りを指で確かめた。商人は御者台で帳面を開き、短く書く。「物々交換:薄焼きパン×十、油小壜→水・干し草・納屋の影。歩幅、維持」
昼過ぎ、老女が納屋の鍵を持って戻った。扉が軋み、乾いた藁と木の匂いがこぼれる。中は涼しく、風が細く通る。
「夜はここで寝な。灯は一つ。外の子は目が利くから、扉は半分開けておきな」
「礼を」ヴォルクは短く頭を下げた。老女は頷き、腰の藍紐に目を落とす。
「これは昔の癖さ。縒りも甘い。いま街道で流行ってる結びとは違うよ。――気をつけな」
ライラはその結び目を目で刻み、粉の粗さと合わせて記憶に置いた。
夕方、隊はもう一度だけ薄焼きを焼いた。今度は砕いた干し果実を一欠片だけ押し込んで焼き、甘い香りで喉を緩める。塩は足さない。油は指先。
「歩く前に、歩く腹を作る」バルドが端を噛み、肩の力を落とす。
「腹は借り物。返すのは足だ」ヴォルクが言い、見張りの順を配る。「一刻で交代。合図は指で足りる」
薄闇に入るころ、門外に短い影が二つ。柱の陰で藍の粉を指に付け、風に飛ばしていた。子だ。こちらを見る目は怯えず、好奇心に近い。ライラはわざと気づかないふりをして、納屋の扉を半分だけ開けた。
ミーナは竈の火を完全に落とし、石の熱を布で囲って閉じ込める。香りは残らない。老女が井戸端に腰を下ろし、こちらに背を向けたまま手を振った。
「明日、門が開くうちに出な。朝は風がきれいだ」
夜、納屋の影は涼しく、藁は乾いていた。灯は一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。商人は帳面に最後の行を書きつける。「本日の勘定:薄焼きパン、物々交換、納屋泊。道の耳、二度縒り」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、短い笑いがひとつ落ちた。
星が出た。土壁は夜に馴染み、薄焼きの香りは跡を残さず、風に溶けた。
彼らは短く息を揃え、朝の風を待った。
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あなたの「軽い主食」の定番を一つ教えてください。
また明日。




