第023話 乾いた路の昼餉
立ち寄りありがとう。深呼吸をひとつ、
今日の体と心を整えていこう。
更新は毎日11:00予定。無理なくいこう。
峠の背を越えて二日目、道は砂色の緩い波に変わった。遠くで空が揺れ、近くでは石が靴の縁を噛む。帆布は締め、荷は軽いほうを上に。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡もなし」カイが風に耳を向ける。
「なら、歩幅で稼ぐ」ヴォルクが短く告げ、御者台の商人と視線を合わす。
午の少し前、浅い窪地に影を一つ作った。火は使わない。ミーナが革袋から水をほんの少しだけ木鉢へ出し、硬い黒パンを拳ほどに割って沈める。干し葡萄と干し林檎を掌で揉んで、甘い粉を落としてから同じ鉢へ。
「水は少なめ。果実の酸で戻す。噛む前に、香りで喉を起こす」
パンの角はゆっくり丸くなり、果実が水を返しはじめる。商人がラードを爪の先ほど落とすと、香りがほんのわずか温かくなった。
「港の荷では定番の“戻し鉢”だ。水が乏しい日に、舌で噛み潰せる硬さまで持っていく」
バルドは親指でパンを押し、硬さを確かめた。「歯は折れない。腹は立つ」
「腹が立てば、足が出る」ライラが笑わずに言い、周囲の地面に指で細い線を引いた。「――見て」
窪地の縁に、藍の細い糸が絡んでいた。短い結び、三度の縒り。峠で埋めたものと同じ癖。
「追い風で転がったにしては新しい」カイが眉を寄せる。
「なら、道に耳がある」ヴォルクは糸を粉に揉み、指先で風に散らした。「休みは短く。影を動かす」
“戻し鉢”は行軍用に分けられた。ミーナは浸したパンを小さく裂き、果実と一緒に布で包んで渡す。「噛めば甘い。塩は要らない。喉が渇かないように」
カイは歩きながらひとかけ口に入れ、頬の内側で押し広げた。酸が唾を呼び、パンがゆっくりほぐれる。「……走れる」
「走らない。滑る」ライラが前方の丘の肩を指で切る。「影の形が、手で作ったみたいだ」
丘の影を回り込むと、乾いた藪の中に短い棒が二本、斜めに組んで忍ばせてあった。布はない。昼の合図役だ。足跡は軽いが、戻りの向きが二つある。
「見張りと伝い歩き。数は少ない」カイが囁く。
「なら、藪ごと消す」ヴォルクが合図し、バルドが棒を引き抜いて別の影へ挿し換える。ライラは足跡を砂で払い、残った靴の縁を自分の影で上書きした。
「痕跡は短く、影は長く」
午後、道は固い砂礫へ移り、車輪が軽く鳴った。商人が御者台から顔を出す。「次の宿場跡まで二刻。水は薄い。税の見張りがいるかもしれない」
「見張りは紙を好む。紙は嘘をつく」ヴォルクは肩を一度だけ回す。「鍋は嘘を嫌う。今夜は湯を少しだけ増やす」
ミーナが頷く。「戻し鉢の残りを砕いて、湯で薄く伸ばす。果実の甘みで角を落とせます」
薄い陽が傾き、宿場跡の石壁が低く現れた。門は崩れ、井戸は浅く、桶の底に指二本ぶん。水を汲むには足りないが、布を湿らせるには十分だ。
ライラが壁の上から周囲を見渡す。「塵なし。人影なし。だが、柱の陰に青い粉」
「藍の糸を潰した跡だ」カイが指で触れ、匂いを嗅ぐ。「昼のうちに誰かがここを通った」
「なら、灯は一つ。影は増やさない」ヴォルクが決める。
夜支度。火は猫の尻尾ほどに細く、湯は薄く。砕いたパンと果実がゆっくり戻り、甘さが湯に溶ける。ラードは爪の先。木椀に薄くよそい、皆が喉を湿らせる。喉が水を欲しがらない温度。
「硬いパンは、旅の歯に仕事をくれる」バルドが木椀を見つめる。「仕事をした歯は、よく眠る」
「眠る前に見張りを一巡」ライラが順を配り、カイは弦を緩めた。
商人は帳面に短く記した。「本日の勘定:戻し鉢、藍の粉、痕跡処理。歩幅は安定」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、小さな笑いが落ちた。
星がひとつ、またひとつ。宿場跡の石は冷え、湯気は低く漂う。硬パンと干し果実の甘さは短く残り、やがて夜へ沈む。
合図は指で足りる。明日も、歩幅で勝つ。
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今日の一杯、何を飲む? また明日。




