第022話 峠の鹿影
立ち寄りありがとう。深呼吸をひとつ、
今日の体と心を整えていこう。
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朝の冷えがまだ指先に残るうちに、浅い峠へ踏み入った。岩は白く乾き、低木は針のように細い影を落としている。風は北西。帆布は締め、荷は軽いほうを上へ。合図は指で足りる。
「足跡、三つの幅。昨日の風で半分消えてる」ライラが膝をつき、砂粒を指で転がす。
「獣の交差だ。小さくて速いのと、少し重いのと」カイが答える。「……重いのは鹿だな」
峠の肩を回ると、灌木の間に薄い擦れ跡が続いていた。角で枝を磨いた痕。樹皮が新しく剥け、樹液が固まりきっていない。近い。
商人が御者台から小声で言う。「道が腹に報いる日だといい」
「腹は走らせるために使う」ヴォルクは短く返し、手で隊列の間隔を少し広げた。「鏡と塵、確認」
塵はない。鏡の閃きもない。峠はただ、風と石と針葉の匂いだけを運んでいた。
岩棚の陰で一度止まる。バルドが荷から平たい黒石を二枚取り、火で温度を上げる。煙は上げない。ミーナは水を一口だけ使って手を清め、腰の小刀を布で拭いた。
「来るなら、いま」
カイが身を低くし、灌木の間に目を流す。茶の影が一つ、止まっては二歩進み、また止まる。首を傾げ、風を嗅いでいる。距離、二十を切る。呼吸を半に折り、弦を引く。短い静寂――矢は音を持たず、影が岩陰へ崩れた。
「一矢」ライラが指で丸を作る。「回収、手早く」
バルドが肩で抱き、ミーナが喉に指を当てる。血は少なく、息はすぐに消えた。鹿の体温が手のひらに残るうちに、二人は無駄なく動く。皮を半分だけ剝ぎ、脚の良い部位を外し、残りは岩陰へ運ぶ。骨と皮は浅く掘って埋め、土を固めて石で印を消す。匂いは草で拭い、針葉を揉んで手に擦り込んだ。
「跡は短く、影は長く」ライラが立ち上がる。「石は温まってる?」
黒石は、表面に白い息が出るほど熱かった。ミーナは鹿肉を掌ほどの厚みに切り、塩を控えめに振る。乾いた香草を指で揉んで粉にし、表面に薄くまぶした。ラードは使わない。肉の脂だけで足りる。
「香りは鼻で、塩は舌で。喉は水を欲しがらないように」
じゅ、と短い音。鹿の脂が石の上で薄く光り、香草が焦げる前に香りだけを立てる。片面を短く焼き、返し、火から離して休ませる。中は温かく、血は走らない。
バルドが小さな端を摘み、鼻で息を抜く。「軽いのに、力が出る」
「鉄の匂いは薄い。歩くための肉だ」カイが頷き、周囲へ視線を流す。
分けるのは薄く、広く。木板の上に紙片を敷き、焼けた面を下にして冷ましながら配る。商人はひと口だけ噛み、「数字が遠くまで運べる味だ」と小さく笑った。
「帆布の下で、残りを薄く削って干す。昼の風で半分、夜で半分」ミーナが段取りを口にする。
「匂いは風下へ。干し網は影で隠す」ライラが針葉を束ね、網の上にかぶせた。
峠の背を越える頃、灌木の根元に細い藍の糸が絡んでいるのをカイが見つけた。短い結び、三度の縒り。見覚えのある染めだった。
「港の色だ。ここにも手が伸びてる」
「糸は嘘をつかない」ヴォルクは糸を土に埋め、影で印を消した。「だが、道は選べる。今日は選んで行く」
峠の裏側は斜面が緩く、石は角を丸めていた。午の少し前、浅い窪地に出る。岩の割れ目に水が指三本ぶんだけ溜まり、周囲の苔が暗い緑をしている。
「水は器を湿らす程度。干し網に霧を通す」ミーナが手を伸ばす。
鹿の薄切りは、風に当たりながら少しずつ乾き、香草の粉が表で落ち着く。噛めば香りが先に立ち、塩気は後ろから追いかける。
午後、隊は斜面を下り、砂色の盆地を横切った。遠く、石を積んだ古い狼煙台の肩が欠けている。ライラが片手を上げて警戒を示す。人の気配はない。土の崩れ方は古い。
「夜は風下の低木へ。灯は一つ」ヴォルクが決める。
日が傾く。干し網の鹿肉は、表が乾いて中は柔らかい。ミーナは薄く裂き、残った生肉をさらに細く刻んで香草と合わせ、小さな塊にして焼いた。石はまだ温い。表だけ焦がし、紙片で包んで携行に回す。
「明日の昼に噛めるように」ミーナが言う。
「生きてたら、増やせ」ライラがいつもの言葉を返す。
夕刻、岩陰に帆布を張って風を避け、火を猫の尻尾ほどに細くした。香草焼きの端を皆でひと口ずつ確かめる。鹿脂は軽く、針葉の香りが短く鼻を抜ける。喉は水を欲しがらない。
商人が帳面を開き、今日の勘定を書きつける。「鹿一、干し肉増し、歩幅安定。――噂にせず、数字にする」
「噂は風。紙は腹に乗る」ヴォルクは短く言い、見張りの順を示した。「一刻で交代。合図は指で足りる」
星が出た。峠の風は冷たいが、腹の中には温かい柱が立っている。香草の香りは短く残り、やがて夜の底へ沈んだ。
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最近ハマっている調味料を一つ教えてください。
また明日。




