第021話 荒野を越えて
立ち寄り感謝。深呼吸をひとつ、
今日の体と心を整えていこう。
更新は毎日11:00予定。水分と休息を大事に。
夜の涼しさがまだ石に残るうちに、砦の門が開いた。帆布を締め直した荷馬車が二台、前後に短い間をあけて並ぶ。先頭にヴォルク、左右の外側にライラとカイ、最後尾にバルド。商人は“動く倉庫”の御者台で、手綱を低く持った。
「影が短いうちに距離を稼ぐ。川床に降りたら一息、丘は影を渡る」ヴォルクが簡潔に告げる。
「合図は指で足りる。笛は使わない」ライラが続け、砂に一度だけ靴を鳴らす。
門が背後で閉じる。砦の灯は小さくなり、荒野の空が広い。風は西。乾いた草の匂いに、昨夜の肉の香りはもう混ざっていない。
干上がった川床は、白く割れた皿を重ねたように続いていた。馬の蹄が薄い破片を踏むたび、細い音が響く。商人が御者台から短く言う。「右岸に古い狼煙跡。近い日付では使われていない」
「なら、誰かが使いたがるまでは影として借りる」ライラは眼差しで丘の肩を数える。カイは時折、歩を止めて風を読む。遠い塵はない。鏡の光もない。今日の荒野は、ただ広い。
朝陽が上がり切る前に最初の休止を取った。浅い窪みに帆布を張り、日を遮る。バルドが荷から石を二つ取り、火にかけて温度を上げる。煙は上げない。ミーナが小鍋に水をほんの少し落とし、砕いた大麦と細かく裂いた干し肉を入れた。
「干し肉は先に少し揉むと塩がほぐれる」ミーナは指先で肉を擦り、鍋に滑らせる。「香草は袋で揉んで粉だけ。水は増やさない。足りない分は熱で噛ませる」
熱した石を鍋の脇へ移し、火を猫の尻尾ほどに絞る。湯が細かく鳴り、干し肉の角が丸くなっていく。うっすら出る脂を大麦が抱き込む。
「匂いが軽いのに、腹が起きるな」バルドが鼻を鳴らす。
「軽いから、長く歩ける」カイは頷き、耳を風に向ける。「……鉄の音は、ない」
粥はやわらかすぎないところで止められた。ミーナが木椀に薄くよそい、最後に指先で香草をひとつまみ、湯の上で揉んで落とす。立ちのぼる香りは短く、喉の奥を通る温度は穏やかだ。
「塩は控えめ。喉で水を欲しがらない程度に」ミーナが念押しする。
ヴォルクは一口すすり、呼吸の回数を整えるようにゆっくりと飲み込んだ。「腹は借り物。返すのは足だ」
商人が木椀を両手で包み、笑みを薄くした。「この味なら、数字が遠くまで運べます」
日が高くなる。隊列は川床を離れ、石の多い緩斜面へ角度を変えた。風が向きをわずかに変え、砂粒が靴の縁を叩く。ライラが手をひらりと上げて止まる。地面に膝をつき、指で細い線をなぞった。
「獣道。小さい偶蹄。昨日以前の跡。……西の低木へ向かっている」
「水を嗅いだ跡か」カイが目を細める。「灌木の影が重なる。午後、影を渡れる」
商人が荷から布の包みを取り出し、ライラへ手渡す。「舌を潤す干し果実。酸は喉を騙す」
「騙すなら、短く」ライラは小さく頷き、ひとかけを舌の脇に寝かせた。
正午の少し前、岩棚の陰で二度目の休止。火は使わない。朝の残りの大麦粥は布で包んだまま温度を保っている。ミーナが包みを開いて各自に分ける。固まりかけた粥は歯に心地よく、噛めばゆっくり水気を返した。
「昼は噛む粥。歩きながらでも食べられる」ミーナが言う。
「歩きながらでも、見るのは止めない」ライラは斜面の先を指で区切る。「砂丘の肩、影が不自然。藪の形が手で作ったみたいだ」
「待ち伏せの跡なら、今日の分じゃない」カイが首を振る。「踏み返しが薄い。風で削れかけてる」
「いずれにせよ、影は借りる」ヴォルクは短く決め、進軍の角度を一つだけ変えた。
午後、空は白く、地平は揺れた。帆布の下で商人が地図をたたみ、御者台に戻る。バルドが車軸の金具を掌で触れ、熱の具合を確かめる。
「軋みなし。坂は押してやれば持つ」
川床の名残の溝に出た。水はないが、土がわずかに湿っている場所がある。ミーナが小さく指を上げた。「汲めるほどじゃないけど、布を湿らせるくらいは」
「濡れ布は足に回せ。砂の熱で皮がやられる」ヴォルクが命じ、各自、包帯の外に布を重ねて縛る。歩幅が揃う。影が伸び始め、風が冷え始める。
夕刻、西の低木が少しだけ厚くなった。獣道はその手前で左右に割れ、片方は石の上で途切れる。ライラが膝をつき、土を指で掬って匂いを嗅いだ。
「水の匂い。……遠くない」
商人が微笑む。「道は腹に報いる」
浅い窪みに、雨季の名残りの水が指先ほど溜まっていた。飲むには足りないが、顔を拭い、器を軽くすすぐには十分だ。ミーナは鍋を布で拭き、干し肉の欠片を数える。「今夜も大麦粥。水が少し増やせるから、香草をひとつまみ足す」
「生きてたら、増やせ」ライラがいつもの言葉を返す。
火は極小。湯はゆっくり。干し肉の端がほどけ、大麦の粒がひらく。今日二度目の粥は、朝よりも柔らかく、香りは少しだけ強い。木椀を受け取ったバルドが肩の力を落とした。「腹に柱が立つ」
夜支度の前、ヴォルクは全員の顔を順に見た。「塵は上がらず、鏡もない。明日は浅い峠を越える。帆布は締め、荷は軽いほうを上へ。――合図は指で足りる」
カイは弦を緩め、弓袋に収めた。「風の向きが変わる。夜は冷える」
「なら、腹の中で火を持てばいい」ミーナが鍋の蓋をそっと下ろす。
商人は御者台の腰袋から薄い紙を一枚取り出し、短く書きつけた。「『本日の勘定:水、影、歩幅。鍋は十分に働いた』」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、微かな笑いが生まれた。
星が出た。帆布の下に小さな灯を一つ。影は増やさない。増やす必要のない夜だ。干し肉と大麦粥の温度が喉を通り、体の底に静かな火が灯る。
彼らは寝息を短く揃えた。荒野の向こうに、明日の峠が低く黒い線を引いている。
読んでくれてありがとう。
ブクマ・評価が次の筆を軽くします。
最近よく食べる“簡単ごはん”を一つ教えてください。
また明日。




