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饗狼傭兵団戦記 〜腹を満たすまで〜  作者: 影道AIKA


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205/229

第205話 蒼空の剥離

訪問ありがとう。今日は“剥がした後”が勝負の回です。ゆっくり読んでください。

大きい異常は打たれた。だが、効かなければただの重い木だ。

 だから次に来るのは、その木を剥がした後の“空白”だ。

 空白は怖い。怖いから人は意味を足す。意味を足せば、また線が立つ。

 立った線は、次の群れを呼ぶ――蒼空の剥離。


 朝の空は高く、風が乾いていた。

 井戸の脇に打たれた木札は、昨日のまま残っている。

 誰も近づかない。

 近づかないのに、皆が意識している。

 それが空白の前触れだ。


「塵なし。鏡なし。……視線が戻る」

 カイは井戸へ向かう足が少しずつ増えているのを拾う。昨日は場を畑寄りへ移した。今日は“戻したくなる”空気がある。

「釘は越えた。今日は空が舌」

 ライラは人の気持ちの戻りを読む。異常が去ったあと、人は元の形へ戻りたがる。戻りたがる瞬間が、一番刺されやすい。


 老人は座ったまま、木札を見ない。

 見ないことで、場にしない。

 だが今日は、それだけでは足りない。

 札は剥がす。

 剥がした後に残る“何も無い”へ、意味を足させないために。


「借りる腹は返す足で」

 ヴォルクは即断する。

「剥がす。だが、空けない」

 バルドが低く問う。

「埋めるのか」

「埋めない」

 ヴォルクは短く返す。

「流れで剥がす。

 剥がした場所を、ただの通りに戻す」


 大事なのは後片付けを“事件”にしないことだ。

 事件になると、木札は最後にもう一度勝つ。

 勝たせないためには、剥がすこと自体を“何でもない仕事”に落とす必要がある。


 商人が御者台で小さな布を一枚たたむ。

 札を隠すためじゃない。

 木くずを受けるためだ。

 木くずが散ると、人は立ち止まる。

 立ち止まると場になる。

 場になると意味が増える。

 だから散らさない。


 ミーナは火を使わない。

 黒石を布に包み、木鉢を据える。布袋の水をひとすくい、“旅酵”を指の腹だけ落とす。焙り麦をひとつまみ、釘片粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。

「“空守りのすすり”。湯気は出さず、温いで止める」

 酸は淡い。

 だが、胸の中の“何か言いたい”が少し遠くなる。

 空白を見た時、人は言葉を足したくなる。

 その衝動を落とす味だ。


 剥がす役は、老人じゃない。

 老人が剥がすと意味が強くなる。

 女でもない。女が剥がすと噂の入口になる。

 商人でもない。商人が剥がすと外の線と結びつく。

 だから、子どもだ。


 子どもは“掃除”として札の前へ行く。

 掃除は事件じゃない。

 毎日あっていいものだ。

 子どもは木札の端へ手をかけ、ぐっと力を入れる。

 抜けない。

 そこでバルドが後ろから一歩だけ寄り、釘を緩める。

 前に出ない。

 支えるだけ。

 支える動きは、主役にならない。


 木札が外れる。

 乾いた音は小さい。

 小さくていい。

 大きい音は“終わり”を強調する。

 強調された終わりは、次の噂の始まりになる。


 外した木札はすぐに布へ包まれる。

 見せない。

 見せると勝ち負けになる。

 勝ち負けにした瞬間、また線が立つ。

 だから、ただ片づける。


 井戸の脇に残るのは、釘穴だけ。

 小さい穴。

 穴は空白だ。

 空白は意味を呼ぶ。

 呼ばれる前に、意味のないもので埋める。


 ライラが桶を一つ、その少し手前へ置く。

 置くだけ。

 新しい場にしない。

 ただ、人の足がそこを避けるようにする。

 避ければ、穴は踏まれない。

 踏まれなければ、誰も話題にしない。


「井戸は戻す?」

 女が小さく聞く。

 ここが罠だ。

 昨日の場へ戻るか。

 戻れば“元通り”になる。

 元通りは覚えやすい。

 覚えやすいものは刺されやすい。


「半分だけ戻す」

 ヴォルクは即断する。

「水は井戸。

 声は畑寄り」

 井戸を完全には場に戻さない。

 戻さないことで、空白を空白のまま放置しない。

 場を分けたまま、流れだけ戻す。


 代理が来る。

 今日は少し遅い。

 遅いのは期待していたからだ。

 木札が無くなった空白に、何か起きると思っていた。

 何も起きていないのを見て、目がわずかに細くなる。


「外したか」

 代理が言う。

「片づけた」

 老人が座ったまま返す。

 片づけた。

 剥がした、じゃない。

 終わらせた、でもない。

 片づけた。

 それだけで、札の意味はかなり薄くなる。


 代理は釘穴を見る。

 穴を指摘したい。

 だが穴は小さい。

 小さい穴を大きな異常にするには、また言葉を足す必要がある。

 言葉を足せば、仕事が増える。

 仕事は増やしたくない。


 商人が淡々と言う。

「今日は井戸の水を使う。

 だが声は井戸に置かない」

 代理が眉を動かす。

「声?」

「話」

 商人は短く言い換える。

 言い換えは熱を持たない。

 熱を持たない言葉は、権威の餌になりにくい。


 外れで群れの足音が一度だけ寄る。

 札が無くなったなら、空白に入りたい。

 だが井戸は半分しか戻っていない。

 完全に戻っていない場は、踏み込みにくい。

 踏み込んでも成果が薄いからだ。


 誰かが小さく言う。

「何も変わってないな」

 その一言が勝ちだ。

 何も変わっていない。

 つまり、札は勝っていない。


 遠い肩で、黒い点が一度だけ揺れ、すぐ消えた。

 鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。


 代理は去り際に短く言う。

「……異常は無い」

 また同じ報告。

 同じ報告が続くと、代理の価値は薄くなる。

 価値が薄くなれば、目は外れる。


 商人が御者台で短く記す。

「本日の勘定:蒼空の剥離、木札撤去。井戸半復帰。異常、継続無し」

「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」


 ヴォルクは結論を出す。

「空白は作らせなかった。次は、場じゃなく“人の外”を叩いてくる」

 場が駄目なら、人の帰り道。

 人の帰り道が駄目なら、持ち帰るもの。

 次に来るのは――“帰り際”を狙う手だ。

最後まで読んでくれてありがとう。大きな異常を片づけた後ほど、丁寧さがものを言います。

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