第020話 新たな契約
立ち寄り感謝。
深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。
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昼の鐘が一度だけ鳴った頃、関所道から塵をまとった馬車が入ってきた。帆布は新しく、車輪には港の砂がまだ白く残っている。馬車を降りたのは、細身の軍吏と上等な外套の商人。軍吏は手早く巻簡の封蝋を示し、商人は笑みを浮かべたまま、鼻先だけで砦の匂いを測った。
「カルディア連邦より正式の任。饗狼傭兵団に辺境路の護衛および交渉随行を依頼する」軍吏が読み上げる。「報酬、金貨に加え保存食、塩、油、乾燥野菜の支給。契約期間、二十日。途中合意により延長可」
ヴォルクは封蝋の印と書き手の癖を確かめ、短く頷いた。「条件は悪くない。だが道は荒い。補給口は?」
「行く先々で商隊を束ねる。こちらの彼が“動く倉庫”だ」軍吏が商人を顎で示す。
商人は胸に手を当てて会釈した。「香りで腹を起こし、数字で心を落ち着かせるのが私の仕事ですよ、団長殿」
話は胸壁の陰で進んだ。ルート、狼煙台の位置、河川の浅瀬、通行税の煩い門。ライラが地図に針の跡を増やし、カイが視界の開ける丘をいくつも指で撫でる。バルドは荷の重さと車軸の強さを確認し、坂の角度を靴底で記憶に刻む。
「危ないのは、風で砂が道を隠す区間」商人が言う。「そこには腹が必要。腹に余裕があれば、目は遠くを見る」
「腹は契約で満たす。嘘は鍋が暴く」ヴォルクが返す。
「嘘を嫌う鍋なら、今ここで一つだけ」
商人が荷台の小箱を開ける。香草と乾いた赤い果実の匂いがふっと立った。ミーナが自然と一歩、近づく。彼は粗挽きの肉に香辛料を混ぜ合わせ、掌で小さく丸めていく。胡椒の尖り、乾いた果実の甘酸っぱさ、干しニンニクの影。鍋には油を少し。丸めた団子が面で音を立て、薄い焦げ目が香りを起こす。そこへ潰した赤果実――港で“トマト”と呼ぶもの――を加え、塩を控えめに、香草を指で揉んで落とす。
「カルディア商人風、香辛肉団子。水は使わない。果実が水だ。腹は軽く、足は速くなる」商人が蓋をかぶせ、猫の尻尾ほどの火で静かに煮含める。
湯気ではなく、香りが先に砦へ広がった。ミーナは木杓子で一つ割って味を見る。香辛料は舌に刺さらず、鼻の奥で転がる。肉は柔らかく、果実の酸が後ろで支える。
「……喉が渇かない。塩も尖らない」ミーナが目を細めた。
「道で食うご馳走は、“次の一歩が軽くなる”が正解だ」商人は笑い、団子を一つずつ小皿に分けていく。
食いながら、書きながら、数えながら。砦の石の上で契約の文字が重ねられた。支給の内訳、護衛範囲、交渉の口上に口出しする権限の線引き。ライラは曖昧な文言に薄く線を引き、カイは護衛隊列の間隔を指で刻む。バルドは荷の積み替え順を口にして、兵たちに覚えさせた。
「急ぎ過ぎれば荷が軋む。遅ければ噂が先に腐る」ヴォルクは最後の一行に指を置く。「“必要なら現地で人員を追加雇用”。これを残す」
「助かる条文だ」軍吏が頷く。
署名のための木卓に、薄い布が一枚敷かれた。昨日、空の椀を置いたのと同じ場所だった。ヴォルクは印を押し、ライラが見届け、カイが日付を記す。バルドが軽く卓を叩き、ミーナが小さな香草を一葉、布の端へ置いた。匂いは強くない。ただ、息が深くなる。
「これで、砦は台所から道具箱へ戻る」ヴォルクが静かに言う。「出立は明朝。影が短いうちに門を抜ける」
「鍋は今夜で片付け。明日は握れるものだけに」ミーナが頷く。
夕刻、商人は荷の一角を開け、肉団子の残りを柔らかいパンで挟んで配った。赤い果実の汁が少しだけ染み、香辛料が鼻から抜ける。兵たちの表情がほどけ、同じ温度の息が並ぶ。
「噂は風、契約は紙、腹は鍋」カイがパンを半分に割りながら言う。
「紙で腹は満たせないが、鍋は紙を運ばせる」ライラが返す。
ヴォルクは短く締めた。「明日、荒野。歩幅で勝つ」
門の外では、行商の子が団子の匂いに鼻を鳴らし、空へ指で丸を描いた。丸は風に乗り、砦を離れていった。
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