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饗狼傭兵団戦記 〜腹を満たすまで〜  作者: 影道AIKA


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第019話 英雄の噂

寄ってくれてありがとう。

深呼吸をひとつ、今日の体と心を整えていこう。

更新は毎日11:00予定。水分と休息を忘れずに。

午の風が変わった。荒野の土煙は遠くでほどけ、砦の前には新しい足跡が増えない。昨夜からの板と布は胸壁の裏へ外され、欠けた杭が並べて乾かされている。砦はまだ小さいままだが、息は少し長く吸えるようになった。

「矢羽根は再生できるものを分けておけ」ヴォルクが穂先を指でなぞる。「折れた分は数に入れる。誇りは数えない」

 バルドが土嚢の縫い目を踏み固め、斧の柄を撫でた。「数は腹の癖を直す。腹が正直なら、腕っぷしも正直だ」

 ミーナは兵舎の陰に小さな火を起こし、鍋に麦と水を落とす。沸きは細く、泡は静か。刻んだ野草をラードでさっと回し、ほろ苦さだけを残して鍋へ移す。「塩は控えめ。麦の甘みを先に感じてもらうほうが喉が落ち着きます」


 最初の来訪は旅の行商だった。荷車の帆布を半分だけ巻き上げ、門で固い笑みを作る。

「ここを守ったのが、あんたたちか。『木の牙を噛み砕く小狼の砦』って呼ばれ始めてるぜ」

「木の牙?」カイが首を傾げる。

「移動柵の丸太のことだろう」ライラが肩をすくめる。「噛み砕いたのはあんたの斧だ、バルド」

「俺の歯じゃないのが惜しいな」バルドは笑い、木片を足で転がした。

 行商は荷台から黒パンを二本、古い干し果実をいくつか差し出した。「礼ってわけじゃないが、通れる道があるのは助かる。噂は先に走る。港のほうにも届くだろうさ」

 黒パンは薄く切って、ミーナの鍋へ。湯を吸った端がほどけ、麦の甘みに少しだけ酸味を足した。


 次の来訪は、傷だらけの兵士を三人連れた農民たち。村の外れの水場が荒らされ、狼煙を見て夜を越えたという。

「噂を追って来ました。『布だけを撃つ狼の弓』がいるって」農民の男は帽子を胸に当てた。

「布は嘘をつかない」ヴォルクが返す。「人の胸は要らない」

 ミーナが木椀を並べ、麦粥をよそって渡す。湯気が顔に当たり、野草の香りが目尻を緩めた。

「うまい……苦いのに、甘い」若い兵が驚いたように言う。

「苦いのは草。甘いのは麦。熱いのは鍋。大丈夫な順番にしてある」ミーナは微笑まずに説明する。


 午後、詰所の旗竿に新しい布告が吊られた。書き手の癖が鋭い細字で、砦防衛の経緯と損耗が記され、末尾に「饗狼傭兵団の働き、顕著」とある。読み上げ役の軍吏は咳払いをひとつした。

「――以上。なお、南路の隊商に併走護衛の依頼を出す予定。詳細は追って通達」

 読み上げが終わる前に、布告の周りに人の輪が生まれた。誰かが声に出して読み、誰かが記憶の皺をなぞり、別の誰かが話を盛る。

「布を撃った矢が十本で百本になった、とか」

「灯一つで影が十倍に見えた、とか」

「斧で丸太を食った、とか」

「食ってない」バルドが即答し、周囲が笑う。笑いは短く、すぐに落ち着く。笑い声の後ろで、空の椀が静かに置かれたままだった。


 カイは胸壁に腰を下ろし、遠い地平を眺めた。「噂って、風だな。向きを選ばない」

「選べるのは、こちらの呼吸だ」ライラが言う。「速く走れば風は強くなる。ゆっくり歩けば、匂いは残る」

「どっちも腹が要る」ヴォルクが短く締める。「腹を満たすなら、まず腹の数を数える」

 ミーナの鍋が静かに鳴り、麦粥は食べ頃になった。野草の苦味が湯の角を落とし、麦の甘みが喉へ細い道を作る。木椀を両手で包んだ兵たちが、同じ温度で息を吐いた。


 夕方、門の外に影が一つ。関所からの使い走りだ。巻簡には封蝋、印はカルディア。軍吏が受け取り、ヴォルクに差し出す。封を切る音は小さいが、砦の石はそれをよく覚えた。

 文面は短い。言葉は丁寧で、数字は冷たい。――防衛の働きにより、次任務の打診あり。条件は良。詳細、明日伝達。

 ヴォルクは目だけで皆の顔を追った。ライラは眉をほんのわずか動かし、カイは弦を撫で、バルドは斧の柄を一度だけ叩いた。ミーナは鍋の火を少し弱め、木椀をもうひとつ多く並べた。

「噂は風だが、契約は紙だ」ヴォルクは巻簡を折り、腰袋にしまう。「紙が腹になるなら、走る準備をする」

 門の外で、商人が子どもに話している声が聞こえた。「狼の連中だよ。布を撃って影で数を増やす。腹いっぱい食うのが夢なんだとさ」

 子どもは「腹いっぱい」を真似て、両手を大きく広げた。風がその仕草を持っていく。噂はまたひとつ、遠くへ転がった。


 夜になる。砦の灯は一つ。板は外され、影は増やさない。今日は増やす必要がない夜だ。

 木椀の底に残った粥を指で拭い、ミーナは火を落とした。「明日は塩をひとつだけ増やします」

「生きてたら、増やせ」ライラがひとつ息を吐く。

 ヴォルクは短く言う。「噂は勝手に走る。俺たちは、歩幅で勝つ」

 星が出た。風は静かに、麦の匂いを運んだ。

読了感謝。

ブクマ・評価・感想が次の筆の背中を押してくれる。

あなたの「ほろ苦いけど好きな味」をひとつ、教えてくれたら嬉しい。また明日。

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