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饗狼傭兵団戦記 〜腹を満たすまで〜  作者: 影道AIKA


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第018話 勝利の代償

立ち寄ってくれてありがとう。

深呼吸をひとつ、今日の肩の力を少し抜いていこう。

更新は毎日11:00予定。水分と休息、大事に。

朝靄がほどけきる前、砦の外側で角笛が長く一声、低く引きずった。昨夜に乱れた輪が、歯を食いしばるように形を取り戻してくる。丸太はない。代わりに前列は盾を重ね、移動柵を押し、短弓の列が間を埋めた。

「布だけを撃て。人は疲れるが、布は嘘をつかない」ヴォルクの声が胸壁の石へ吸われ、広がる。

 カイの一矢が油布の端を裂き、ライラの指が二長を切る。伏せ、息、伏せ。土嚢の向こうで乾いた弦が千の昆虫のように鳴き、矢は脈のように砦を叩いた。バルドは杭を踏み、崩れたひびに楔を打ち込む。足場が低く鳴り、砦は静かに呼吸を刻む。


 午の手前、敵の列が一度だけ膨らんだ。盾の裾から走った影が、柵の足を掬おうと潜る。バルドが胸壁から飛び、土塁の陰で斧の背を打ち込んだ。骨が鳴り、影がほどける。「次!」

 次の影をカイが布ごと縫いとめ、ライラが三短一長で退きを示す。胸壁上でヴォルクが投槍を一つ、重ね盾の隙へ滑らせた。短い悲鳴。足並みが乱れ、列がひと呼吸ぶんだけ遅れる。遅れは、荒野では傷になる。

「水は半刻」ライラが腕を掲げ、兵へ短い休止を切り分ける。「影に入れ。喉で数えろ」

 井戸の底は見えている。桶の鍔が石に当たる音は、もはや金属の薄笑いのようだ。だがミーナは配分表の針を動かさない。「昼までは粥の残りで持たせます」


 日が真上をわずかに過ぎた時、南東の薄い一辺で狼煙が上がりかけ、途中で崩れた。昨日の夜に倒した土色の旗の穴が、まだ埋まっていない。合図は齟齬を起こし、前列と後列の足が噛み合わない。砦の上にだけ、風が一つ長く通った。

「今だ」ヴォルクが静かに言う。カイの矢が合図役の新しい布を裂き、ライラの部隊が胸壁の脇から石壺を投げる。水と土で作った泥が、焚き付けと火口の息を潰した。バルドが門台から斜めに降り、崩れかけの移動柵に肩を入れる。木が悲鳴を上げ、腹から折れた。

 角笛が短く三度、そして途切れた。隊列が波打ち、後方から怒声が押し寄せる。波は、ひとたび崩れれば戻りにくい。砂に残る足跡は乱れ、やがて同じ方向へ揃った。退きだ。

「追うな」ヴォルクは首を振る。「輪を閉じる前に、息を保て」


 静けさは、最初は耳が信じない。ミーナが木椀を配り、喉の奥を温める薄い湯に、体が「終わり」を理解していく。胸壁の影が一つずつ立ち上がり、矢羽根の欠けが数えられるようになる。砂の上で、血の筋が陽に乾いて黒くなった。

 若い兵が壁に背を預け、肩の包帯を押さえた。「……戻った、んですね」

「戻った。だから数える」ライラが周囲に目を配る。「生きている数、折れた矢の数、使った布の数。持っている息の数」

 砦の兵は二十七から二十四へ。うち二人は歩けるが、もう弓は引けない。ひとりは――戻らない。名を呼ぶ声はない。代わりに、木椀が一つ、空のまま長机の端に置かれた。


 午後遅く、下士官が倉の鍵を持って現れた。錆びた鉄の音。彼は倉の扉を開け、奥から短い太鼓ほどの小樽を二つ、肩で抱えて出してきた。「勤めの間、いつかのために塩と一緒に寝かせておいた。今日が『いつか』だ」

 同じ倉から、塩漬けの豚塊と干した獣の腿。バルドが刃を入れ、外の石場に簡易の架台を組む。ミーナは塩を水で洗って角を落とし、肉の筋を確かめてから串に通す。火は猫の尻尾よりわずかに太く、風に逆らわない程度に。脂が最初の一滴を落とし、石の上で弾けた。

「勝利の肉酒宴なんて、荒野じゃ贅沢ですけど……」ミーナが苦笑する。

「贅沢は、たまには腹の仕事だ」バルドが串を返し、滴る脂を肉へ掛ける。


 樽口が開き、濃い麦酒の香りが砦の石に染みた。木椀に一杯ずつ。渇きを煽らないよう口を湿らす程度から始める。ヴォルクははじめの椀を、空のままの席の前に置いた。しばし、誰も手をつけない。

「よく戦った席だ」ヴォルクは囁き、次に口を湿らせる。「次に座る者が、空でないように」


 肉は表を焦がし、中はゆっくり温まっていく。塩の角は丸く、香草は少しだけ。ミーナが薄く切って配り、硬い黒パンを薄板のように炙って添える。脂が舌の上で伸び、麦酒の苦味がそれを追い越して喉へ落ちる。砦の石に、短い笑いが点々と灯った。

 カイは木椀を掲げ、空の席に半ば向けて言う。「見てたら、笑ってくれ」

「笑ってない顔を思って笑え」ライラが椀を軽くぶつける。「それが残し方だ」

 下士官は口の端を上げ、短く呟いた。「胃袋で嘘はつくが、今日はつかない」


 陽が落ち、焚き火の赤が肉の表を照らす。宴は豪快だが、声は大きくならない。笑いが弾けても、すぐに落ち着く。空の椀はそのまま。誰も片付けない。誰も倒さない。

 ミーナは最後の切り分けを終え、香草をひとつまみ、湯で湿らせて指先で潰した。香りだけを風に放つ。「……明日は、塩をひとつだけ増やしてもいい」

「生きてたら、増やせ」ライラが繰り返す。

 ヴォルクは立ち上がり、短く言う。「持ち場を持たせた。代償は、数にする。名は胸にしまう。――腹を満たす日は遠いが、今日の一口は近づいたぶんだ」

 肉の香りと麦の苦味が夜に溶けていく。砦は小さい。だが小さい焚き火は、風が変わるまで消えない。

読んでくれて感謝。

ブクマ・評価・感想が次の筆の燃料になります。

あなたの「ささやかなご褒美ごはん」をひとつ、教えてくれたら嬉しい。また明日。

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