第017話 団員の絆
寄ってくれてありがとう。
深呼吸をひとつ、背中の力を少し抜いていこう。
更新は毎日11:00予定。水分と休息を大事に。
夜の乱れは朝まで尾を引いた。藍の旗だけが揺れる輪は、合図を取り違え、近づいては止まり、止まっては退いた。だが陽が上がれば、数は正直だ。黒い点はまた等間に整い、土煙は太くなる。
「矢は布だけ。人は疲れるが、布は嘘をつかない」ヴォルクが胸壁に手を置き、短く告げた。
角笛が一度、遠く低く鳴った。丸太は来ない。代わりに短弓の列が前に出る。乾いた弦の合唱。カイが布の端を射抜き、ライラが二長で伏せを命じ、土嚢に吸われた矢が鈍い音を立てる。小さな砦は、静かに呼吸の回数を数えた。
日が傾きはじめた頃、丘の陰で跳ね返った矢が折れて、若い兵の肩口に刺さった。息が詰まり、膝が落ちる。バルドが肩を抱えて引きずり、ミーナが走る。
「喉を閉めない。吸って、吐いて。――大丈夫、ここは血の匂いより煮込みの匂いが強い場所にする」
彼女は包帯を肩の下で通し、傷の縁に温めた水を一滴だけ垂らす。草の粉を指で潰して貼り、布で押さえ、軽く縛る。「痛いほうを握る。手の中で丸めて、外へ出すイメージ」
若い兵は歯を噛み、目を閉じた。呼吸は短く、次に少しだけ長くなった。
「よし」ミーナは頷き、視線だけでバルドに合図を送る。「火を細く。鍋、お願いします」
兵舎の隅で、鉄鍋が静かに鳴った。バルドが木べらを持つ姿は、鉱山の坑木を担ぐときと同じ癖があった。太い腕、ゆっくりとした手首。
「ザルツの坑夫鍋だ。芋は厚め、塩豚は水に少しだけさらして角を落とす。水は多くするな。芋が水になる」
鍋に芋が重ねられ、その間に薄切りの塩豚が挟まれる。胡椒はない。香草は指で揉んで香りだけを落とす。蓋をして、火は猫の尻尾ほど。蒸気が鍋の内側を巡り、脂が芋へ降りる。
「坑道は冷える。湯気で体の芯を起こして、脂で力を足す。塩は後で少し足せばいい」
ミーナが頷く。「焦げは香りだけ残し、煙は外に出さない」
胸壁では、ヴォルクが見張りの交代を短く回し、ライラが合図を手に戻して整えた。カイは矢羽根の乱れを指で梳き、若い兵の方へ視線をひと呼吸だけ寄越す。
「肩の傷は取れる匂いだな」カイが鼻先で鍋の湯気を吸い、目を細めた。
「匂いで治るなら戦は要らん」ヴォルクが小さく笑い、空の端を見上げる。「だが、匂いで心は持つ」
外では旗がまた渋く揺れた。輪は締まり切らず、日が傾く。狼煙の灰は風に薄まり、代わりに芋の甘い湯気が砦の石に沁みた。
鍋の蓋が持ち上がる瞬間、音はほとんどしなかった。白い湯気が静かに立ち、芋の面がほぐれ、塩豚の脂が薄い膜になって光る。ミーナが木杓子で底から返し、味を見る。塩は弱い。けれど足りる。
「今はこれで良い。喉が水を欲しがらないように」
木椀が並び、湯気が手の内に集まる。最初の一杯は若い兵へ。彼はゆっくり口に運び、噛むたびに肩の力が少しずつほどけた。「……温かい、です」
「温かいは、食べ物の仕事だ」バルドが笑った。「うちはその手伝いをする」
配膳の合間、ミーナは包帯の端をそっと撫で、血の滲みを確かめる。「落ち着いている。夜は寝返りを少なく。体の重さを反対側へ移す力の入れ方を覚えて」
若い兵は頷き、木椀を抱えたまま目を瞬かせる。「俺、旗を倒したの、見ました。藍は立ってましたけど……」
「見たことと、語ることは違う。語るのは明日」ライラが静かに言い、木椀を受け取って彼の指先を軽く押した。「今は食べるだけでいい」
鍋は二巡目に入り、端の芋は形を留めないほど柔らかくなった。カイが底の焦げを木べらで撫で、香りをすくう。焦げは煙にならず、香りだけが湯に溶ける。
「坑夫鍋は、腹の底に柱を立てる料理だ」バルドが自分の椀を空にしながら言う。「柱が立てば、上に重いものを積める」
「積むのは明日だ」ヴォルクは皆の顔を順に見、短く頷いた。「今夜は柱を立てる。鍋と包帯と、静かな息で」
日が落ち切り、胸壁の灯は再び一つになった。板と布で増やした影が砂地に揺れ、外の輪は手探りのまま固くならない。砦の内側には、湯気と、木椀の触れる小さな音と、短い笑い声が残る。
ミーナは最後の椀を自分に満たし、少しだけ塩を指先でつまんで落とした。「……次は、もう少し香草を増やしても大丈夫」
「生きてたら、増やせ」ライラが微笑まずに言い、灯の下で指を組み直した。
ヴォルクは木椀を置き、静かに言う。「腹を満たす日は遠い。だが、こうして近づける」
芋の甘みが、石の冷たさを少しだけ溶かした。小さな砦に、ひと晩だけ、温かい柱が立った。
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あなたの「心が落ち着く温かい一杯」をひとつ、教えてくれたら嬉しい。また明日。




