第016話 夜襲の作戦
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月は薄く、荒野は墨を流したように沈んでいる。砦の胸壁の灯は一つだけ。板と布で増やした影が砂地に不規則な数を刻む。南東の低い丘――昼に見つけた旗の往来が遅れる薄い一辺へ、四つの影が滑った。
先行はライラとカイ、背に麻縄と小さな鉤。後ろにバルドと若い兵が一人。ヴォルクは胸壁から風の向きと影の伸びを見て、短く指を二度鳴らした。出ろ、戻れ、を分ける音だ。
丘の肩にたどり着く前、わずかに火を使う。ミーナが砦の裏手で、炭に風を通して小指ほどの炎を立て、塩漬け魚の切り身を皮だけ焦がす。煙は出さない。脂が細く滲み、焦げた塩の匂いが舌に唾を呼ぶ。
「皮は焦がして、中は温めるだけ」ミーナが囁き、薄切りを一枚ずつ紙片に包んだ。「噛めば喉が動く。水は要らない」
カイは一欠片を頬に隠し、舌で転がす。塩気が血を目覚めさせ、歯の裏に油が薄く伸びる。「……歩ける」
「走るな。滑れ」ライラが短く返し、闇へ溶けた。
丘裾の灌木に身を沈めると、乾いた草の間を、衣擦れの細い音が渡っていった。合図役がいる。布と角笛、そして旗の索――藍と土。昼の動きをなぞるなら、まずは土色が前、藍が制止だ。
ライラは指二本で「二」と示し、カイの肩を軽く叩く。風が背から押す。弦が半ばまで引かれ、耳の中の鼓動と揃った瞬間、矢は草を割って無音で抜けた。影がひとつ、息を洩らす間もなく沈む。笛が鳴らない。
同時にバルドが丘の肩を回り、旗の索を支える木杭へ鉤縄をかける。腕のひと振りで索が撓み、結び目がほどけ、土色の布が地面に吸い込まれた。若い兵がすばやく布を回収し、反対側の灌木へ絡めて動きを止める。
「藍だけが立つ。合図は狂う」ライラが唇だけ動かす。
砂の向こう、包囲の輪の一角がざわめき、影が寄っては止まった。土色の指示が見えない。藍は制止を示すのに、前の列は止まれない。短い混乱が生まれる。そこにもう一つ。
カイが低く構え直し、今度は旗の見張りの手元を撃ち抜いた。布が半分、竿に絡んで回る。暗闇の中で色がちぎれ、藍か土か判じにくい斑になる。声が上がるが、角笛は鳴らない。鳴らす手が、いま地にある。
「戻るよ」ライラは合図役の死体から短笛を抜き、砂に深く差した。「音は砂に預ける」
帰路は来た道とは違う。丘の肩から川床の浅い溝へ滑り、灌木と影の数だけ体を折って進む。バルドは最後尾で足跡を撫で、砂の面を掌でならす。若い兵は回収した土色の旗を二つ折りにして抱き、息を喉奥に押し殺した。
砦が近づくと、胸壁の灯の後ろで板の位置がそっと動き、影が三つから四つへ増えた。見張り台の上でヴォルクが二短、ひと息置いて一短――「見えている、急がない」の合図。ライラが小さく頷き、最後の灌木を抜ける。
胸壁の内側に足を入れた瞬間、荒野の向こうで角笛が乱れた。二度、三度、喉を潰したような短い音。輪を締め直す合図か、それとも混乱の知らせか。どちらでもいい。狙いはもう達した。
「一辺、黙らせた」ライラが報告し、土色の旗を掲げてみせる。バルドは杭から外してきた索を放り出し、肩で笑った。
「旗が倒れりゃ、頭が迷う。丸太が遅れる」
カイは矢を一本、灯にかざして羽根を直した。「今夜は布を撃つだけで足りる」
胸壁の下で、ミーナが炙り魚の残りを指先でちぎり、皆にひと口ずつ渡す。焦げた皮の香りが短く立ち、塩気が疲れの底に触れて溶ける。
「水は後で。今は噛むだけでいい」
ヴォルクは顎を一度引き、南東を見た。黒い点の列は、先ほどより細く、低い。藍だけが揺れている。土の指示は沈黙したままだ。
「今夜は持つ。明けたら、また学ぶ。――合図は指で足りる」
灯は一つ。影は増え、砦は静かに呼吸を取り戻した。炙った塩の匂いだけが短く残り、やがてそれも、夜の底へ沈んでいった。
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