第123話 蒼影の狭間
深呼吸をひとつ。影が動かない場所は、“旅が深みに入った”証だよ。
蒼礫の坂を越えると、風がひとつ落ち、光がわずかに薄まった。
前方には、道でも森でもない、“影が影として立つ”狭い空間が広がっている。“蒼影の狭間”。
影は濃くもなく薄くもなく、ただ存在し、揺れもせず、地面に貼りつくように沈んでいた。
「塵なし。鏡なし。……影が動かない」カイが足元の影を踏む。
影は踏まれても形を変えなかった。
「礫も跡も過ぎた。今日は影が舌」ライラが掌を影の上にかざす。温度がない。が、気配がある。
狭間の中央に、黒墨の衣をまとった“影守”が静かに立っていた。
腰紐に藍はない。掌には、光を吸う“影核”。
「ここは影が留まり、道の‘深さ’を示す狭間。
影は触れれば濁り、放せば伸びる。
……通るなら、この核を“光で割ってはならない”」
商人が息をのみ、バルドが影核を受け取ろうとする瞬間、指先がわずかに沈んだ。
ライラが前に出て、胸の呼吸を整え、影を照らさない角度で両手を差し出す。
影核は光を避けるようにしてその掌へ落ちた。
「谷へ二、丘へ一。影持ちは半手で」影守の声は地の奥から響くようだった。
「覚えた」ライラは影の“静かな拍”を骨へ刻んだ。
ミーナは火を使わない。
黒石を布に包み、木鉢へ据え、布袋の水をひとすくい。“旅酵”を落とす。
焙り麦の粉をひとつまみ、礫片粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“影守りの薄り”。湯気は出さず、温いで止める」
酸が跳ね、影の匂いと土の深さが静かに混ざる。
カイがすすり、胸の奥が静かに沈む。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は影の揺れを観察しながら「歩幅を稼ぐ味だ」と呟いた。
狭間の地には、藍の点が沈まずに“浮いたまま”止まっていた。
「粉の囁きは沈む。舌は影」ライラが点を指で触れる。動かない。
「濡れ布の揺れなし。目は遠い」カイが肩を切る。「輪になる前に抜ける」
影守が薄い“影片”をミーナへ差し出す。
「器に沈めれば、味が深みに沈む」
「受け取ります。礫片と重ねます」ミーナは丁寧に包み込む。
正午前、狭間のほぼ無風の影で休止する。
火は使わず、“影守りの薄”を裂き、影粉を押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。胸が静かに沈んで整います」ミーナが配る。
バルドは影の拍と自分の呼吸を合わせた。
午後、影の濃淡がゆっくり薄まり、狭間が道へ戻り始める頃──
遠い肩で黒い点が一度だけ揺れ、すぐ消えた。
鏡ではない。濡れ布でもない。
目はいるが、舌は遠い。
「影は眠った。耳は届かない」ライラが静かに告げる。
「良い。歩幅は揃える」
ヴォルクは二列に整え、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、蒼影の狭間を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさず、必要のない夜。
器に影片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は立たず、酸が胸の奥へゆっくり沈んだ。
御者台で商人が短く記す。「本日の勘定:蒼影の狭間、影持ち、影片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」
ヴォルクの声に、影が一瞬だけ揺れた。
星が出る。
影は眠り、次の地形は“深い山脈”の気配を帯びて立ち上がろうとしていた。
読了感謝。影の濃淡にまつわる記憶があれば、そっと教えてください。また明日。




