第121話 蒼跡の浜
深呼吸をひとつ。音のない浜は“記憶の章”への入り口。
蒼澄の沢を抜けると、地面がゆっくり乾き、風が海の気配を連れてきた。
前方には、波音のしない浜が広がっていた。“蒼跡の浜”。
遠くに海が見えるのに、音が届かない。
砂は白く、ところどころに蒼い薄片が散らばり、光の角度でゆっくりと色を変える。
「塵なし。鏡なし。……砂が静かすぎる」カイが足先で砂を払う。
音がしない。
「澄も火も過ぎた。今日は跡が舌」ライラが薄片を拾う。
熱も冷たさもない。ただ“記憶の欠片”だけがそこにあった。
浜の中央には、薄い海色をまとった“跡守”が立っていた。
腰紐に藍はない。掌には、割れかけた“跡核”。
「ここは波の‘記憶’が残る浜。
音はなく、形だけが残り、そして消える。
……通るなら、この核を‘踏んではいけない’」
ヴォルクが眉をひそめる。「踏まずに通れ、ということか」
跡守は頷かない。だが否定もしない。
ただ手の中の跡核が“揺れずに揺れる”。
「借りる腹は返す足で」
商人が低く言い、バルドが前に出る。
核は地面へ置かれた。
ライラがその周囲をそっと回り、足跡をつけないように歩幅を整える。
砂が揺れず、跡だけが光を返した。
「谷へ二、丘へ一。避けは半手で」跡守が囁く。
「覚えた」ライラはその“避ける拍”を骨に刻んだ。
ミーナは火を使わない。
黒石を布に包み、木鉢へ据え、布袋の水をひとすくい。“旅酵”を落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、澄片粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“跡守りの薄り”。湯気は出さず、温いで止める」
酸が静かに跳ね、浜の“音のない気配”と混じった。
カイがすすり、胸の奥が静かに広がる。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は砂の光を見ながら言った。「歩幅を稼ぐ味だ」
浜には藍の点が散っており、それぞれが“波の形”だけを残していた。
「粉の囁きは沈む。舌は跡」ライラが薄い片を並べて光を観察する。
「濡れ布の揺れなし。目は遠い」カイが肩を切る。「輪になる前に抜ける」
跡守が淡い“跡片”をミーナに渡した。
「器に沈めれば、味が‘残って消える’」
「受け取ります。澄片と重ねます」ミーナが静かに包む。
正午前、浜の影で休止する。
火は使わず、“跡守りの薄”を裂き、跡粉を押し戻す。
香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。心が静かに‘波の形’だけを受け取ります」ミーナが配る。
バルドは砂が返すわずかな拍に耳を澄ませた。
午後、海の色が深まりはじめたころ──
遠い肩で黒い点が一度だけ揺れ、すぐに消えた。
鏡ではない。濡れ布でもない。
目はいるが、舌は遠い。
「跡は眠った。耳は届かない」ライラが静かに言う。
「良い。歩幅は揃える」
ヴォルクは二列に整え、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、蒼跡の浜を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増えず、必要のない夜。
器に跡片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は立たず、酸が胸の奥で静かに消え、また少し残った。
御者台で商人が短く記す。「本日の勘定:蒼跡の浜、避け歩き、跡片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」
ヴォルクの言葉に、波のない海がひとつ光を返した。
星が出る。
跡は眠り、道はまだ先の景色へ続いていた。
読了感謝。消えた跡の記憶や、静かな浜辺の思い出があれば教えてください。また明日。




