第120話 蒼澄の沢
深呼吸をひとつ。澄の沢は“静かに通す”ための章だよ。
蒼火の窪地を抜けると、熱はふっと消え、代わりに冷たすぎない清らかな気配が腰のあたりを撫でていった。“蒼澄の沢”。
地面はゆるやかに沈み、細い流れが幾筋も地表の下を走っている。
表面は乾いているのに、踏むと“水の気配”だけが返る。
「塵なし。鏡なし。……地面の下で水が息してる」カイが足裏をゆっくり沈める。
「火も途も過ぎた。今日は澄が舌」ライラがしゃがみ込み、地を覆う薄い膜を指でなぞる。冷たくなく、柔らかくなく、ただ“澄んでいる”。
沢の中心には、水の色を帯びた灰蒼の衣を纏った“澄守”が立っていた。
腰紐に藍はない。掌には、薄く透ける“澄核”。
「ここは澄が巡る沢。
触れれば濁り、静かに寄れば澄む。
……通るなら、この核を地へ“流す”がよい」
ヴォルクが息を整え、御者台の商人へ合図を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが澄核を受け取り、ライラが地面の“水の気配”が強い一点を探す。
掌をそっと置き、核を滑らせるように流し込む。
地の下で、水脈がひとつ拍を打った。
「谷へ二、丘へ一。流しは半手で」澄守が静かに告げる。
「覚えた」ライラはその拍を骨深く刻んだ。
ミーナは火を使わない。
黒石を布に包み、木鉢に据え、布袋の水をひとすくい。“旅酵”を指の腹だけ落とす。
焙り麦をひとつまみ、火片粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“澄守りの薄り”。湯気は出さず、温いで止める」
酸が静かに跳ね、水脈の気配を思わせる香りが広がる。
カイがひと口すすり、胸の奥がすっと澄む。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は沢の拍を聞きながら言う。「歩幅を稼ぐ味だ」
沢の地面には藍の点がほとんどなく、代わりに“水紋”のような薄い線が淡く揺れていた。
「粉の囁きは沈む。舌は澄」ライラが指先で紋を押す。緩やかに返る拍。
「濡れ布の揺れなし。目は遠い」カイが肩を切る。「輪になる前に抜ける」
澄守が薄い“澄片”をミーナに渡す。
「器に沈めれば、味が澄みわたる」
「受け取ります。火片と重ねます」ミーナが丁寧に包み込む。
正午前、沢の緩やかな影で休止する。
火は使わず、“澄守りの薄”を裂き、澄粉を押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。胸がゆっくり澄んでいきます」ミーナが配る。
バルドは足元から返る拍に合わせて深く呼吸した。
午後、水脈の拍が弱まり、地面が沈まず安定しはじめる頃──
遠い肩で黒い点が一度だけ揺れ、すぐ消えた。
鏡ではない。濡れ布でもない。
目はいるが、舌は遠い。
「澄は眠った。耳は届かない」ライラの声は静かだった。
「良い。歩幅は揃える」
ヴォルクは二列に整え、御者台へ親指を立てる。「合図は指で足りる」
夕刻、蒼澄の沢を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさず、必要のない夜。
器に澄片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は立たず、酸が胸の奥へやさしく広がる。
御者台で商人が短く記す。「本日の勘定:蒼澄の沢、核流し、澄片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、地の下の水脈がひとつ返した。
星が出る。
澄は眠り、道はさらに奥の地形へと続いていた。
読了感謝。澄んだ水の気配で思い出す景色があれば、教えてください。また明日。




