第118話 蒼途の広場
深呼吸をひとつ。“形になる前の道”は、旅の転調が始まる場所だよ。
蒼陸の段を下り切ると、前方がふわりと開けた。木々でも草でもない、ひらけた“空間”がぽっかりと道の上に乗っている。“蒼途の広場”。
広場と呼ぶには静かすぎ、道と呼ぶには形が曖昧。
土は薄く、風は弱く、しかし“道が息を吸い、吐く”ような拍だけが確かにあった。
「塵なし。鏡なし。……地面が軽いな」カイが足裏の沈みを確かめる。
「陸も縁も過ぎた。今日は途が舌」ライラが膝をつき、土の振動を聞く。深くもなく浅くもなく、まるで“これから始まる形”を探しているような拍。
広場の中心には、淡い土色の衣を纏った“途守”が立っていた。
腰紐に藍はない。掌には、まだ形になりきらない“途核”がひとつ。
「ここは道が形を変え続ける地。
歩幅の整いを受け取り、その先の“姿”を決める。
……通るなら、この核にひと息を添えよ」
ヴォルクは静かにうなずき、御者台の商人を見やる。「借りる腹は返す足で」
バルドが途核を受け取り、ライラが掌で包むようにしてひと息を吹き込む。
核は淡く光り、広場の拍がひとつ揃った。
「谷へ二、丘へ一。添えは半手で」途守が告げる。
「覚えた」ライラはその揃いを骨に刻んだ。
ミーナは火を使わない。いつものように黒石を布に包み、木鉢を据え、布袋の水をひとすくい。“旅酵”を指の腹だけ落とす。
焙り麦の粉をひとつまみ、陸片粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“途守りの薄り”。湯気は出さず、温いで止める」
酸が短く跳ね、土と空気が混じる軽い香りが広がる。
カイがすすり、胸の中央がゆっくり整う。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は何かを測るように地面の揺れを見つめる。「歩幅を稼ぐ味だ」
広場には藍の点がほとんどなく、代わりに“未熟な線”が道の中心をうっすら描いていた。
「粉の囁きは沈む。舌は途」ライラが線を指でなぞる。
「濡れ布の揺れなし。目は遠い」カイが肩を切る。「輪になる前に抜ける」
途守が淡い“途片”をミーナに渡す。
「器に沈めれば、味がひらきはじめる」
「受け取ります。陸片と重ねます」ミーナが丁寧に包んだ。
正午前、広場の影で休止をとる。
火は使わず、“途守りの薄”を裂き、途粉を押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。胸がゆっくり歩きはじめます」ミーナが配る。
バルドは広場の拍に耳を傾けながら深く呼吸した。
午後、未熟だった線がすこし濃くなり、広場が“次の道”へ伸びはじめたころ──
遠い肩で黒い点が一度だけ揺れ、すぐ消えた。
鏡ではない。濡れ布でもない。
目はいるが、舌は遠い。
「途は眠った。耳は届かない」ライラが静かに告げる。
「良い。歩幅は揃える」
ヴォルクは二列に整え、御者台へ親指を立てる。「合図は指で足りる」
夕刻、蒼途の広場を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさず、必要のない夜。
器に途片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は立たず、酸が胸の奥にやさしく広がった。
御者台で商人が短く記す。「本日の勘定:蒼途の広場、息添え、途片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、地面がひとつ軽く震えた。
星が出る。
途は眠り、次の景色が静かにその輪郭を結びはじめていた。
読了感謝。まだ形の定まらない道の感触に覚えがあれば、教えてください。また明日。




