第117話 蒼陸の段
深呼吸をひとつ。土が歩みを受け止めはじめる場所は、旅の“再安定”を示す。
蒼縁の森を抜けると、地面がふたたび硬さを取り戻し、わずかな勾配と段差をまといながら前へ続いていた。“蒼陸の段”。
段丘ほど大きくはないが、一段一段が“呼吸する板”のようにわずかに揺れている。木々の拍から、土の拍へ——道が形を結びなおす瞬間だった。
「塵なし。鏡なし。……土が深い拍を持ってる」カイは段の縁を踏んで確かめる。
「縁も芽も過ぎた。今日は陸が舌」ライラが段を叩き、返る響きを聞く。硬さと柔らかさが半分ずつ混じった音。
段の中央で、薄茶の外套をまとった“陸守”が腰を下ろしていた。
腰紐に藍はない。掌には、角の取れた“陸核”がひとつ。
「ここは土がまとまり、歩幅の重さを受け止める場所。
乱せば濁り、整えれば道は太くなる。
……通るなら、この核を段へ添えよ」
ヴォルクは静かにうなずき、御者台の商人へ視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが陸核を受け取り、ライラが段の中心へそっと添える。
核は沈まず、段の拍と合わさり、低く澄んだ振動を放った。
「谷へ二、丘へ一。添えは半手で」陸守が告げる。
「覚えた」ライラはその振動を骨に刻んだ。
ミーナは火を使わず、黒石を布に包み、木鉢に据える。
布袋の水をひとすくい、“旅酵”を指の腹だけ落とす。
焙り麦の粉をひとつまみ、縁片粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“陸守りの薄り”。湯気は出さず、温いで止める」
酸が静かに跳ね、土の深い拍と混ざり合う。
カイがひと口すすり、胸の奥が落ち着きを取り戻す。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は段全体の揺れを見ながら言う。「歩幅を稼ぐ味だ」
段の表面には、藍の点が薄く、土に沈むように散っていた。
点は小さく、段の拍に合わせてわずかに震えていた。
「粉の囁きは沈む。舌は陸」ライラが段の縁をなぞる。
「濡れ布の揺れなし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
陸守が四角い“陸片”をミーナに渡す。
「器に沈めれば、味が締まる」
「受け取ります。縁片と重ねます」ミーナが布へ包む。
正午前、段の影で休止する。火は使わず、“陸守りの薄”を裂き、陸粉を押し戻す。
香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。胸がゆっくり安定します」ミーナが配る。
バルドは段のゆるやかな拍に合わせて呼吸した。
午後、段が低くなり、やがて平らな土へ戻るころ──
遠い肩で黒い点が一度だけ揺れ、すぐ消えた。
鏡ではない。濡れ布でもない。
目はいるが、舌は遠い。
「陸は眠った。耳は届かない」ライラが告げる。
「良い。歩幅は揃える」
ヴォルクは二列に整え、御者台へ親指を立てる。「合図は指で足りる」
夕刻、蒼陸の段を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさず、必要のない夜。
器に陸片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は立たず、酸が胸の奥へやさしく広がった。
御者台で商人が短く記す。「本日の勘定:蒼陸の段、核添え、陸片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、段がひとつ深く鳴った。
星が出る。
陸は眠り、道はさらに遠い景色へ向けて延びていた。
読了感謝。土の拍や大地の震えにまつわる記憶があれば、教えてください。また明日。




