第116話 蒼縁の森
深呼吸をひとつ。森は“つながり”を象徴する場所だよ。
蒼芽の谷を抜けると、風の匂いがさらに濃くなった。湿り気は少なく、緑の香りが深い。“蒼縁の森”。
森といっても鬱蒼とはしていない。幹は細く、葉は薄い青を帯びて透けるように光を返す。
足元は柔らかく、踏むたびに低く“小さな縁”のような拍が鳴った。
「塵なし。鏡なし。……木が呼吸してる」カイが幹へ手を添える。
「芽も道も過ぎた。今日は縁が舌」ライラが葉を撫で、その震えを確かめた。葉脈が光に揺れ、拍が返る。
森の入り口に、淡い青緑の外套をまとった“縁守”が立っていた。
腰紐に藍はない。掌には、ひときわ細い木の“縁枝”。
「ここは縁がつながる森。触れたもの同士がかすかに響き合う。
進む者は軽さを、戻る者は深さを持ち帰る。
……通るなら、この枝で森にひと筆刻め」
ヴォルクが頷き、御者台の商人へ視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが縁枝を受け取り、ライラが森の幹にそっとひと線を刻む。
幹は傷まず、代わりに光がふわりと広がり、森全体へ拍が伝わった。
「谷へ二、丘へ一。刻みは半手で」縁守が静かに告げる。
「覚えた」ライラはその縁の拍を骨に刻んだ。
ミーナは火を使わない。黒石を布に包み、木鉢へ据え、布袋の水をひとすくい。“旅酵”を指の腹だけ落とす。
焙り麦の粉をひとつまみ、芽片粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“縁守りの薄り”。湯気は出さず、温いで止める」
酸がやわらかく跳ね、森の香りと混ざる。
カイがひと口すすり、胸の奥が深く息を吸うように整う。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は森の拍を聞きながら言う。「歩幅を稼ぐ味だ」
森の道には、小さな葉の形をした“縁筋”が淡く輝いていた。藍の点の代わりに、葉脈の光が道を示している。
「粉の囁きは沈む。舌は縁」ライラが葉脈を指でなぞる。
「濡れ布の揺れなし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
縁守が薄い“縁片”をミーナに渡す。
「器に沈めれば、味が深まる」
「受け取ります。芽片と重ねます」ミーナが丁寧に包んだ。
正午前、森の影で休止する。火は使わず、“縁守りの薄”を裂き、縁粉を押し戻す。
香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。胸の輪郭が整います」ミーナが配る。
バルドは森の拍を聞きながら深く呼吸した。
午後、森の木々がゆるやかに間隔を広げ、再び空が見え始めるころ──
遠い肩で黒い点が一度だけ揺れ、すぐ消えた。
鏡ではない。濡れ布でもない。
目はいるが、舌は遠い。
「縁は眠った。耳は届かない」ライラの声は穏やかだった。
「良い。歩幅は揃える」
ヴォルクは隊を二列に整え、御者台へ親指を立てる。「合図は指で足りる」
夕刻、蒼縁の森を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさず、必要のない夜。
器に縁片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気はない。酸が胸の奥へ優しく広がった。
御者台で商人が短く記す。「本日の勘定:蒼縁の森、縁刻み、縁片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、森がひとつ低く響いた。
星が出る。
縁は眠り、さらに深い地形が、静かに姿を見せようとしていた。
読了感謝。葉の匂いや森の拍で思い出す感覚があれば、教えてください。また明日。




