第113話 蒼明の境界
深呼吸をひとつ。境界の地は、いつだって物語の“再起動”の合図になる。
蒼道の果てを越えた先は、夜でも昼でもない“不思議な明るさ”に満ちていた。
光は白くない。蒼でもない。
まるで空そのものが、ゆっくり呼吸しているかのように淡い明滅を繰り返している。“蒼明の境界”。
足元は静かで、土でも砂でも草でもない。
踏めば“音がしない”。
しかし沈みもしない。
空気が地面の役割をしているかのようだった。
「塵なし。鏡なし。……地が息してる」カイが足裏の感触を試す。
「果ても芯も過ぎた。今日は明りが舌」ライラが光の層に掌を差し入れた。光は反応せず、ただ“在る”だけだった。
少し歩くと、前方に一本の柱が立っていた。
柱といっても木でも岩でもない。
蒼い光の筋がねじれ、細い塔のように伸びている。“明塔”。
その前に、一人の影が静かに佇んでいた。
影──の形をしているが、実体はない。
ただ、輪郭だけが蒼く揺れていた。
「ここは“境界”。蒼道が眠り、新しい名も、まだ与えられていない道が生まれる前の場所。
進む者は軽く、戻る者は深く沈む。
……通るなら、拍をひとつだけ重ねよ」
響きは声ではない。
風でもない。
ただ“心の中央”でひとつ鳴った。
ヴォルクは息を整え、御者台の商人へ視線を送る。「借りる腹は返す足で」
商人は無言で頷く。
バルドが前へ出て、胸の中心でひとつ拍を刻む。
続いてライラ。
そしてカイ。
隊全員の拍がひとつに合わさった瞬間、明塔が低く震えた。
「谷へ二、丘へ一。重ねは半手で」
響きが告げる。
「覚えた」
ライラはその震えを骨に刻んだ。
その後も、いつも通りの作業が始まる。
ミーナは火を使わない。黒石を布に包み、木鉢を据える。布袋の水をひとすくい。“旅酵”を指の腹だけ落とす。焙り麦をひとつまみ、果片粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“明守りの薄り”。湯気は出さず、温いで止める」
酸が静かに跳ね、光と空気の香りがひろがる。
カイがひと口すすり、胸の奥がゆっくりひらく。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人が明塔を見つめたまま言う。「歩幅を稼ぐ味だ」
境界の地には、もう藍の点はほとんど残っていなかった。
粒は消えかけ、代わりに“光の層”が、拍に応じて僅かに揺れている。
「粉の囁きは沈む。舌は明」ライラが光の縁をそっとなぞる。
「濡れ布の揺れなし。目は遠い」カイが肩を切る。「輪になる前に抜ける」
明塔が淡い“明片”をミーナへ渡す。
ふれると温かいようで冷たい、不思議な片だ。
「器に沈めれば、味がひらく」
「受け取ります。果片と重ねます」ミーナが丁寧に包んだ。
正午かどうか分からない明るさのまま、休止の時間がくる。
火は使わず、“明守りの薄”を裂き、明粉を押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。胸が静かになります」ミーナが配る。
バルドは光の拍の中で静かに呼吸した。
午後、光の層がゆるやかに薄まり、“境界”が道に変わるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れ、すぐ消えた。
「明は眠った。耳は届かない」ライラの声は低い。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクが二列に整え、御者台へ親指を立てる。「合図は指で足りる」
夕刻の感覚すら曖昧なまま、帆布を張る。灯は一つ。影は増えず、必要のない夜。
器に明片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気はない。酸が胸の奥へ静かに広がった。
御者台で商人が短く記す。「本日の勘定:蒼明の境界、拍重ね、明片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、明塔が静かにひとつ瞬いた。
星ではなく、光の粒が空に浮かんだ。
そして新しい道の“入口”が、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。
読了感謝。暗くも明るくもない境界の瞬間で思い出す感覚があれば、教えてください。また明日。




