第112話 蒼道の果て
深呼吸をひとつ。“蒼道編”のフィナーレにようこそ。
蒼路の芯を過ぎると、風の色が変わった。
蒼でも灰でもない、“透明な青”が胸の奥をくすぐるように吹き抜ける。大地は平らで、影も線もなく、ただ遠く一点だけがぼんやりと光を帯びていた。“蒼道の果て”。
そこへ近づくほど、足元の脈が弱まり、代わりに“静かな拍”が空気そのものから返ってきた。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……風が呼吸してる」カイが胸に手を当てる。
「芯も門も過ぎた。今日は果てが舌」ライラが一歩前へ出る。足裏へ返る拍は弱い。それでも確かに“何か”へ繋がっていた。
光の中心に立っていたのは、誰か──ではない。
衣も外套も背も形もない。ただ、蒼い輪郭だけが立ち、“旅路の形”をした空白がそこに在った。
それは声のようで声ではなく、響きのようで音ではなかった。
「ここは蒼道の終わり。歩幅のすべてが集まり、新しい道の入口へ変わる場所。戻る者は軽くなり、進む者は重さを忘れる。……通るなら、歩幅をひとつだけ差し出せ」
ヴォルクは静かに息を吐き、御者台の商人に目を向ける。「借りる腹は返す足で」
バルドが頷き、前へ出る。
差し出すのは“歩幅”。
物ではない。言葉でもない。隊全員が今日まで整えてきた“呼吸”そのもの。
ライラが目を閉じ、胸の中心でひとつ拍を刻む。
光が広がり、果てが静かに脈打った。
「谷へ二、丘へ一。差しは半手で」
声とも風とも言えない響きが告げる。
「覚えた」
ライラはその拍を骨に刻み、静かに目を開いた。
しかし作業は必要だ。どんな“果て”であっても。
ミーナは火を使わず、黒石を布に包み、木鉢を据える。布袋の水をひとすくい落とし、“旅酵”を指の腹だけ落とす。焙り麦をひとつまみ、芯片粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“果守りの薄り”。湯気は出さず、温いで止める」
酸が短く跳ね、風と土の境目のような香りが膨らむ。
カイがひと口すすり、胸の奥が静かに整った。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人が蒼い光を見ながら言う。「歩幅を稼ぐ味だ」
果ての地面には、藍の点がほとんど残っていなかった。
粒は細く、消えかけている。だが散ってはいない。
代わりに、目には見えない脈と、空気の拍が“話していた”。
「粉の囁きは沈む。舌は果て」ライラが風の中心へ掌を向けた。
「濡れ布の揺れなし。目は遠い」カイが肩を切る。「輪になる前に抜ける」
光の輪郭が小さな“果片”をミーナに渡す。
形のあるようでない、不思議な片。
「器に沈めれば、味が終わりと始まりを結ぶ」
「受け取ります。芯片と重ねる」ミーナはそっと包んだ。
正午かどうかも分からない明るさの中で休止する。
火は使わない。“果守りの薄”を裂き、果粉を散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。胸の奥が、道と繋がります」ミーナが配る。
バルドが深く頷き、光の奥へ目を向けた。
午後、蒼い光が細くほどけていくころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れ、すぐに消えた。
鏡ではない。濡れ布でもない。
目はいるが、舌は遠い。
「果ては眠った。耳は届かない」ライラが静かに言った。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクが二列に整え、御者台へ親指を立てる。「合図は指で足りる」
夕刻、蒼道の果てを背に帆布を張る。灯は一つ。影は増えず、必要のない夜だ。器に果片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は立たず、酸が胸の奥を優しく撫でた。
御者台で商人が短く記す。「本日の勘定:蒼道の果て、歩幅差し、果片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの言葉に、光がひとつだけ震えた。
星が出る。
蒼道は眠った。
そして──その先には、まだ誰も名をつけていない“新しい道”が続いていた。
読了感謝。長い旅の節目で感じた“静かな終わりと始まり”があれば、そっと教えてください。また明日。




