第110話 蒼伽の門前
深呼吸をひとつ。門の前は“終わりであり始まり”の象徴だよ。
蒼晶の丘を下りきると、風の匂いが変わった。土の香りでも潮でもない、どこか“静かな灯”を思わせる匂い。視界の先に、半円を描く巨大な岩の門が立ち、左右へ蒼い模様が流れていた。“蒼伽の門前”。
近づくほど、足元の土が柔らかくなり、踏むたびに深い沈黙を返してくる。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡あり。……風が、こっちを呼んでる」カイが門を見据える。
「晶も帯も過ぎた。今日は門が舌」ライラが岩肌に手を伸ばす。模様の奥に、微かな熱が灯っていた。
門前の中央には、灰青の外套を着た“門番”が立っていた。腰紐に藍はない。掌には、薄い“蒼伽片”が一枚。
「ここは道が“終わり”を持ち、“始まり”を孕む場所。戻る者は軽く、進む者は重くなる。……通るなら、この片を門へ重ねよ」
ヴォルクは無言でうなずき、御者台の商人へ短く視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが蒼伽片を受け取り、ライラが門の中心へそっと当てる。
瞬間、門に走る蒼い筋が脈打ち、低い音がひとつ響いた。
「谷へ二、丘へ一。重ねは半手で」門番が囁く。
「覚えた」ライラはその響きを骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布に包み、木鉢に据える。布袋の水をひとすくい。“旅酵”を指の腹だけ落とす。焙り麦の粉をひとつまみ、晶片粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“伽守りの薄り”。湯気は出さず、温いで止める」
酸が短く跳ね、土と灯のような香りが重なる。カイがひと口すすり、胸の奥に芯が灯る。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は静かに頷き、「歩幅を稼ぐ味だ」と一言だけ落とした。
門前の岩には古い藍の点が控えめに並んでいた。粒は細く、蒼い筋に吸い込まれるように配置されている。代わりに、門の響きと地脈の揺れが“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は門」ライラがその線を撫でた。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイは肩を切る。「輪になる前に抜ける」
門番が新しい“伽片”をミーナに渡す。「器に沈めれば、芯が揃う」
「受け取ります。晶片と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、門影のもとで短い休止。火は使わず、“伽守りの薄”を裂き、伽粉を指先で散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。胸の灯が整う」ミーナが配る。
バルドは門の脈に合わせて呼吸を整えた。
午後、門の向こうがゆっくりと開けていくころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れて消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「門は眠った。耳は届かない」ライラが呟く。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊を二列に整え、御者台へ親指を立てる。「合図は指で足りる」
夕刻、蒼伽の門前を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増えず、必要のない夜。器に伽片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は立たず、酸が胸の奥を優しく撫でた。
御者台で商人が短く記す。「本日の勘定:蒼伽の門前、片重ね、伽片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの声に、門の蒼筋がひとつだけ脈を返した。
星が出る。門は眠り、しかしその向こうに続く道は、これまでとは違う匂いを帯びていた。
読了感謝。門前や境界の風景で思い出す場所があれば、教えてください。また明日。




