第107話 蒼潮の入り江
深呼吸をひとつ。潮の静けさが、次の地への“橋”になっていく。
蒼穂の平野の揺れが静かに収束していくと、地面に湿り気が戻り、遠くから潮の匂いが運ばれてきた。“蒼潮の入り江”。草原はそのまま砂へと変わり、砂はそのまま水へ溶けるように浜へ続いている。波は高くなく、ただ広い水面が深く脈打つように揺れていた。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡あり。……潮が呼吸してる」カイが海風を胸に受ける。
「穂も律も過ぎた。今日は潮が舌」ライラが砂をすくい、光に透かした。粒が青く光った。
入り江の端に、深い海色の衣をまとった潮番が立っていた。腰紐に藍はない。掌には丸い“潮心”の欠片。
「ここは潮が旅人を読む場所。足跡は波に消え、心だけが残る。……通るなら、この欠片を潮へ返せ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人へ目で合図する。「借りる腹は返す足で」
バルドが潮心を受け取り、ライラが波の届く場所にそっと置いた。欠片は沈まず、ひと息だけ浮かび、波が二度寄せて連れて行った。
「谷へ二、丘へ一。返しは半手で」潮番が囁く。
「覚えた」ライラは潮の脈を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で包み、木鉢の底に据え、布袋の水をひとすくい。“旅酵”を指の腹だけ落とす。焙り麦の粉をひとつまみ、穂片粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“潮守りの薄り”。湯気は出さず、温いで止める」
酸が短く跳ね、潮の香がかすかに混ざる。カイがひと口すすり、胸の奥が静かに整う。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は潮風の中で短く言う。「歩幅を稼ぐ味だ」
入り江の曲線には古い藍の点が淡く残っていた。粒は細く、潮に濡れるたび色が滲む。代わりに、波の拍と海底の低い鼓動が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は潮」ライラが波の端に触れた。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切る。「輪になる前に抜ける」
潮番が青い“潮片”をミーナに渡した。「器に沈めれば味が澄む」
「受け取ります。穂片と重ねる」ミーナが布に包む。
正午前、入り江の影で短い休止。火は使わず、“潮守りの薄”を裂き、潮粉を指先で散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。胸が静かに波打つ」ミーナが配る。
バルドは海のゆったりした拍に合わせて呼吸した。
午後、潮が静かに引き、道が再び砂へ戻るころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れ、すぐ消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「潮は眠った。耳は届かない」ライラが呟く。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊を二列に整え、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、蒼潮の入り江を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさず、必要のない夜。器に潮片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気はなく、酸が胸の奥を穏やかに撫でた。
御者台で商人が短く記す。「本日の勘定:蒼潮の入り江、潮返し、潮片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの声に、波がひとつ寄せて返した。
星が出る。潮は眠り、道は前へ延びている。
読了感謝。海や潮の匂いで思い出す場所があれば教えてください。また明日。




