第106話 蒼穂の平野
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ。“蒼道編”はじわりと核心へ向かっていく。
蒼律の段丘を降り切ると、突如として視界が大きく開けた。遠くまで一面に揺れる草原。だがその草は黄金ではなく、淡い青を帯びた穂をつけている。“蒼穂の平野”。風が吹くたび、穂が波のように押し寄せ、まるで大地そのものが呼吸しているようだった。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……風が穂の中で丸くなる」カイが穂を撫でる。
「律も影も過ぎた。今日は穂が舌」ライラが掌で風をすくった。細かい穂の粉が光に散り、指先をくすぐった。
平野の中央、青布をまとった農守が穂の中に腰を下ろしていた。腰紐に藍はない。掌には小さな“穂核”がひと粒。
「ここは風が実を運ぶ地。乱せば実は潰れ、静かに歩けば穂が道を教える。……通るなら、この核を土へ埋めよ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人へ目を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが穂核を受け取り、ライラが柔らかい土へそっと埋めた。風がひとつ静まり、穂が開くように道が現れた。
「谷へ二、丘へ一。埋めは半手で」農守が囁く。
「覚えた」ライラは土の呼吸を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で包み、木鉢の底に据える。布袋の水をひとすくい。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、律片粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“穂守りの薄り”。湯気は出さず、温いで止める」
酸が短く跳ね、穂と土の香りがふわり広がる。カイがひと口すすり、深く息を落とした。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は風に揺れる穂を見ながら、「歩幅を稼ぐ味だ」と一言だけ。
平野の地面には古い藍の点が広く散っていた。粒は細く、風に流されず、穂に守られるように残っている。代わりに、土の脈と穂の揺れが“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は穂」ライラが土を握って感触を確かめた。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切る。「輪になる前に抜ける」
農守が淡い“穂片”をミーナに渡した。「器に沈めれば香りが広がる」
「受け取ります。律片と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、穂影の中で短い休止。火は使わず、“穂守りの薄”を裂き、穂粉を指先で散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。胸がほどける」ミーナが配る。
バルドは穂の高さを目で追いながら、静かに頷いた。
午後、穂の道が細くなりはじめたころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れ、すぐ消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「穂は眠った。耳は届かない」ライラが静かに呟く。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊を二列に整え、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、蒼穂の平野を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさず、必要のない夜だ。器に穂片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は立たず、酸が胸の奥を柔らかく撫でた。
御者台で商人が短く記す。「本日の勘定:蒼穂の平野、核埋め、穂片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの声に、穂がひと筋、風に揺れ返した。
星が出る。穂は休み、道は前へ延びている。
読了感謝。風に揺れる穂の景色で思い出す場所があれば教えてください。また明日。




