第105話 蒼律の段丘
深呼吸をひとつ。ここから“蒼道編”は最終区画に向けて、道の“意味”が見え始める。
蒼影の境目を抜けると、影は後ろへ下がり、光がゆっくり戻ってきた。やがて地面が階段状に隆起し、段ごとに高さも広さも違う“段丘”が続いていく。“蒼律の段丘”。風が段差ごとに音を変え、まるで大地そのものがゆっくり呼吸しているかのようだった。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……土地が拍を刻んでる」カイは足裏で段の震えを確かめる。
「影も声も過ぎた。今日は律が舌」ライラが段の縁に手を置いた。冷たく、だが規則ある脈が伝わる。
段丘の中央、一段だけ白く磨かれた段に、青灰の衣を着た律師が座っていた。腰紐に藍はない。掌には細長い“律棒”が一本。
「ここは歩幅が“律”として刻まれる地。段を乱せば道が狂う。……通るなら、この棒で大地を一度だけ叩け」
ヴォルクは頷き、御者台の商人へ目を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが律棒を受け取り、ライラが段の白面をそっと叩く。乾いた音が一つだけ響き、段丘全体がゆっくり息を合わせるように震えた。
「谷へ二、丘へ一。叩きは半手で」律師が囁く。
「覚えた」ライラは段の“律”を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で包み、木鉢の底に据える。布袋の水をひとすくい。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、影片粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“律守りの薄り”。湯気は出さず、温いで止める」
酸が短く跳ね、大地のように落ち着いた香りが広がる。カイがひと口すすり、深いところで呼吸が揃う。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は静かに頷き、「歩幅を稼ぐ味だ」と落ち着いた声で言った。
段丘の段差には、古い藍の点が均等な間隔で打たれていた。粒は細い。影で揺れず、風にも乱れず、ただ一定だった。代わりに、地脈の鼓動と段の拍が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は律」ライラが段の角をなぞる。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
律師が四角い“律片”をミーナに渡した。「器に沈めれば味が揃う」
「受け取ります。影片と重ねる」ミーナが布に包む。
正午前、段丘の影で短い休止。火は使わず、“律守りの薄”を裂き、律粉を指で散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。心が歩幅と揃う」ミーナが配る。
バルドは足元を見下ろし、段の一定の震えに合わせて深呼吸をした。
午後、段がなだらかに平地へ戻っていくころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れ、すぐ消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「律は眠った。耳は届かない」ライラが低く言った。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは二列を整え、御者台へ親指を立てる。「合図は指で足りる」
夕刻、蒼律の段丘を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさず、必要のない夜だ。器に律片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は立たず、酸が胸を静かに叩いていく。
御者台で商人が短く記す。「本日の勘定:蒼律の段丘、律打ち、律片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの声に、段の震えがひとつ、ゆっくり返した。
星が出る。地は落ち着き、道は前へ延びている。
読了感謝。段の拍や大地のリズムにまつわる記憶があれば教えてください。また明日。




