第103話 蒼声の断崖
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ。“蒼道編”はあと数話で大きく転じる。
蒼環の峡を抜けると、風が急に強くなった。前方には切り立った断崖が広がり、空と地の境が鋭く露出している。“蒼声の断崖”。風が岩肌を削り、低く響く声のような音を生んでいた。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……風が喉で鳴ってる」カイが断崖の縁を覗く。
「輪も道も過ぎた。今日は声が舌」ライラが風のラインを指で切った。鋭いのに柔らかい、妙な手触りがあった。
断崖の中央に、濃藍の外套を羽織った吟者が立っていた。腰紐に藍はない。掌には細長い“風板”を持ち、風を受けて震わせている。
「ここは声が削られる場所。音を出せば、形のまま残る。……通るなら、この風板を一度だけ鳴らせ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人へ短く視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが風板を受け取り、ライラが断崖の風にそっと差し出す。板が深く低く鳴り、一度だけ岩壁が震えた。
「谷へ二、丘へ一。鳴らしは半手で」吟者が囁く。
「覚えた」ライラは音の芯を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で包み、木鉢の底に据える。布袋の水をひとすくい。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、環片粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“声守りの薄り”。湯気は出さず、温いで止める」
酸が短く跳ね、風の匂いが淡く混ざる。カイがひと口すすり、胸の奥がふっと軽くなる。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は風に紛れるような声で、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
断崖の壁には古い藍の点が広く散っている。粒は細く、風で削られて形が変わっていた。代わりに、岩の響きと風の声が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は声」ライラが岩壁の振動を指で確かめる。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切る。「輪になる前に抜ける」
吟者が薄い風声片をミーナに渡した。「器に添えれば、音が澄む」
「受け取ります。環片と重ねる」ミーナが布に包んだ。
正午前、断崖の影で短い休止。火は使わず、“声守りの薄”を裂き、声粉を指先で散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。胸の奥が静かに鳴る」ミーナが配る。
バルドが深く頷き、吹き上がる風を見上げた。
午後、断崖の終わりが見えるころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れ、すぐ消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「声は眠った。耳は届かない」ライラが呟く。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは隊を二列に整え、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、蒼声の断崖を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさず、必要のない夜だ。器に風声片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は立たず、酸が胸の奥を優しく叩いていく。
御者台で商人が短く記す。「本日の勘定:蒼声の断崖、風鳴らし、声片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの声に、断崖の奥でひとつ低い音が返ってきた。
星が出る。声は眠り、道は前へ延びている。
読了感謝。風の音や断崖の低い響きで思い出す景色があれば、教えてください。また明日。




