第102話 蒼環の峡(きょう)
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ。ここからは“蒼道編”の終盤に入っていく。
蒼道の分岐を越えた先で、地形は一変した。左右の岩壁が円を描くように湾曲し、道が渦に巻き込まれるように細く狭くなっていく。“蒼環の峡”。風は低く唸り、足元は丸く磨かれたように滑らかだ。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……道が丸い」カイが足元を見つめる。
「道も紋も過ぎた。今日は輪が舌」ライラが岩壁に掌を添えた。硬いのに、脈のような震えがある。
渦の中心に向かう途中、青灰色の外套をまとった導師が立っていた。腰紐に藍はない。掌には丸い石輪が一つ、ゆっくりと揺れている。
「ここは歩幅が試される場所。速すぎれば環が乱れ、遅すぎれば戻される。……通るなら、この輪を地に転がせ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人へ視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが石輪を受け取り、ライラが軽く傾けて転がす。輪は一度だけ震え、岩の上で止まった。風が静かになり、道が細く整う。
「谷へ二、丘へ一。転がしは半手で」導師が囁く。
「覚えた」ライラは環の振動を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で包み、木鉢の底に据える。布袋の水をひとすくい。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、道片粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“環守りの薄り”。湯気は出さず、温いで止める」
酸が短く跳ね、岩と風の香りが混ざる。カイがひと口すすり、胸がゆっくり整う。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は控えめに目を細め、「歩幅を稼ぐ味だ」と一拍だけ言葉を落とす。
峡の壁には古い藍の点が一定の間隔で並んでいた。粒は細い。だが丸く削られ、均等に配置されている。代わりに、岩の振動と風の環が“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は輪」ライラが指で壁の円をなぞる。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
導師が丸い環片をミーナに渡した。「器に沈めれば味が締まる」
「受け取ります。道片と重ねる」ミーナが布に包む。
正午前、峡の影で短い休止。火は使わず、“環守りの薄”を裂き、環粉を指先で散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。心の中心が揃う」ミーナが配る。
バルドは静かに頷き、峡の天井を見上げた。
午後、渦の道が緩やかにほどけていくころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れ、すぐ消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「環は眠った。耳は届かない」ライラが呟く。
「良い。歩幅を揃える」ヴォルクは隊を二列に整え、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、蒼環の峡を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさず、必要のない夜だ。器に環片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は立たず、酸が胸の奥をやわらかく撫でる。
御者台で商人が短く記す。「本日の勘定:蒼環の峡、輪転がし、環片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの声に、岩壁の円がひとつだけ震えた。
星が出る。環は眠り、道は前へ延びている。
読了感謝。渦のような道や丸い峡で思い出す景色があれば、そっと教えてください。また明日。




