第100話 蒼紋の道標
立ち寄ってくれてありがとう。深呼吸をひとつ。100話目の節目も、静かに淡々と進んでいこう。
蒼露の谷底を抜けると、湿り気は急に途切れ、空気が澄んだ。“蒼紋の道標”。地面には渦を巻くような青い紋が点々と刻まれており、まるで誰かが道そのものに印を押していったように続いている。風は弱く、音は遠い。帆布は低く、荷は締めて。合図は指で足りる。
「塵なし。鏡なし。……紋が息をしてる」カイが地に膝をつき、紋の縁を指でなぞる。
「露も火も過ぎた。今日は紋が舌」ライラが同じく触れた。温度はないのに、脈が伝わる。
道の真ん中に、深い青の外套をまとった記録者が立っていた。腰紐に藍はない。掌に古びた紋石を持ち、それをゆっくり回している。
「ここは道が記憶を辿る場所。紋を踏めば、足跡が刻まれる。……通るなら、この紋石を一度だけ地に落とせ」
ヴォルクは頷き、御者台の商人へ視線を送る。「借りる腹は返す足で」
バルドが紋石を受け取り、ライラが両手で包むようにして地へ落とした。鈍い音が一つだけ響き、紋が淡く光り、すぐに静まった。
「谷へ二、丘へ一。落とすのは半手で」記録者が囁く。
「覚えた」ライラは紋の脈動を骨に刻んだ。
作業の間、ミーナは火を使わない。黒石を布で包み、木鉢の底に据える。布袋の水をひとすくい。“旅酵”を指の腹だけ落とし、焙り麦の粉をひとつまみ、露片粉を爪の先だけ。塩は影。香草は粉。
「“紋守りの薄り”。湯気は出さず、温いで止める」
酸が短く跳ね、石と露の香りが混ざる。カイがひと口すすり、胸が静かに整う。「軽いのに、腹に柱が立つ」
商人は目だけで笑い、「歩幅を稼ぐ味だ」と短く言った。
道標の周囲には古い藍の点が微かに残っていた。粒は細く、紋の線に吸い込まれるように散っている。代わりに、紋の光と地脈のうねりが“話す”。
「粉の囁きは沈む。舌は紋」ライラが紋の中心を指で押さえる。
「濡れ布の揺れ、なし。目は遠い」カイが肩を切った。「輪になる前に抜ける」
記録者が小さな蒼紋片をミーナに渡した。「器に沈めれば味が深まる」
「受け取ります。露片と重ねる」ミーナが布に包む。
正午前、道標の影で短い休止。火は使わず、“紋守りの薄”を裂き、紋粉を指先で散らして押し戻す。香草は粉。塩は影。
「噛まずに舌で広げる。心が揺れずに済む」ミーナが配る。
バルドがゆっくり頷き、地に刻まれた紋を見つめた。
午後、紋の道が薄れていくころ、遠い肩で黒い点が一度だけ揺れ、すぐ消えた。鏡ではない。濡れ布でもない。目はいるが、舌は遠い。
「紋は眠った。耳は届かない」ライラが呟く。
「良い。歩幅は揃える」ヴォルクは二列に隊を揃え、御者台へ親指を立てた。「合図は指で足りる」
夕刻、蒼紋を背に帆布を張る。灯は一つ。影は増やさず、必要のない夜だ。器に蒼紋片を沈め、“薄り”を温いまで起こす。湯気は立たず、酸が胸をそっと撫でていく。
御者台で商人が短く記す。「本日の勘定:蒼紋の道標、石落とし、紋片。歩幅、維持」
「紙は腹にならないが、腹は紙を運ばせる」ヴォルクの声に、紋がひときら揺れた。
星が出る。記憶は眠り、道は前へ延びている。
読了感謝。ここまで来た景色の中で好きな場所があれば、そっと教えてください。また明日。




