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第6話 はじめての酒

 石器の登場により、村の狩猟と加工の技術は飛躍的に向上した。食料はますます豊富になり、人々は満腹が当たり前の日々を送っていた。もはや、飢えの心配をすることはほとんどない。


 ある日、トゥカは森でたくさんの果物を採ってきた。鮮やかな赤色をしたその果実は、甘酸っぱくてみずみずしい。しかし、あまりに大量に採りすぎたため、とても一人では食べきれそうになかった。彼は腹一杯食べると、残りを洞窟の奥にある、岩が窪んで壺のようになった場所に放り込んでおいた。


「ま、いっか。またあとで食べよ」


 その程度の軽い気持ちだった。豊かな時代だからこその、大雑把な行動である。


 しかし、トゥカはすっかりそのことを忘れてしまった。次の日には新しい石器作りに夢中になり、その次の日には犬と狩りに出かけ、そのまた次の日にはタコを焼いて食べた。村の毎日は刺激的な発見と喜びに満ちており、洞窟の隅に追いやられた果物のことなど、彼の記憶から完全に消え去っていた。


 そうして、いくつもの月が満ちては欠け、季節は何度か巡った。


 トゥカが偶然、洞窟の奥を整理していた時のことだ。彼は、鼻をつく奇妙な匂いに気づいた。


「うへぇ、なんか臭くなってる……。何を腐らせちまったんだ?」


 匂いの元をたどると、そこにはかつて彼が放り込んだ果物の成れの果てがあった。ぐちゃぐちゃに形を崩した果物は、どろりとした液体に変わり、表面には白いカビのようなものが浮かんでいる。明らかに腐敗しているように見えた。


 だが、ただの腐敗臭ではなかった。むっとするような酸っぱい匂いに混じって、なぜか、ツーンと鼻を抜ける芳醇で甘い香りがしたのだ。その不思議な香りは、トゥカの尽きることのない好奇心を強く刺激した。


(なんだ、この匂いは……? 腐ってるだけじゃない、なにかが違う……)


 トゥカはしゃがみ込み、その液体をまじまじと見つめた。すると、彼の足元に控えていた相棒の犬が、くんくんと鼻を鳴らし始めた。トゥカはにやりと笑うと、犬の背中をポンと叩いた。


「……よし、犬。お前はいつも俺の相棒だ。ちょっとこれを舐めてみて、安全かどうか教えてくれ」


「ワンッ!」


 犬は忠実に主人の命令に従い、その不気味な液体をぺろりと舐めた。次の瞬間、犬はブルブルと頭を振ったが、特に苦しむ様子はない。しかし、しばらくするとその足取りはおぼつかなくなり、ふらふらと千鳥足で歩き始めた。


「お、おい大丈夫か!? やっぱり毒だったのか!」


 トゥカが慌てて駆け寄ると、犬は彼の足元に倒れ込み、だらしなく舌を出して、へらへらと笑っているように見えた。目はとろーんとして、どこか気持ちよさそうにすら見える。


(毒じゃない……のか? むしろ、なんだか楽しそうだぞ……)


 トゥカは、意を決した。彼はその液体を指ですくうと、勇気を出してぺろりと舐めてみた。口の中に広がったのは、甘みと酸味、そして舌をピリリと刺激する、今まで味わったことのない複雑な味だった。


「……ん?」


 まずくはない。むしろ、少し癖になる味だ。彼はもう一度、今度はもう少し多くの量を口に含んだ。すると、なんだか頭がぽわっとして、体の力がふわりと抜けていくのを感じた。


「ウホ……なんだこれ……すっげー気持ちいいぞ……」


 ふわふわとして、視界がほんのりと明るくなる。胸の奥から、理由のない高揚感が湧き上がってきた。洞窟の壁も、燃え盛る火も、全てがいつもより美しく、愛おしいものに思えてくる。


 気づけば、彼はへんな歌を大声で歌い始めていた。


「うおおおお! タコは海の神~♪ ぬるぬるうまいぞ~♪ 石器はガンガン♪ 肉でも切れる~♪ 火はメラメラ~♪ あったかいんだぞ~♪」


 音程もリズムもめちゃくちゃな歌を歌いながら、トゥカは洞窟を飛び出し、広場で奇妙な踊りを始めた。その姿を見た村人たちは、目を丸くして絶叫した。


「トゥカ様が壊れたァァァァ!!」


「どうしたんだ!? あの落ち着き払った賢者が、狂ったように踊っているぞ!」


「これは神の祟りか!? いや、もしかしたら神が乗り移った、神の祝福か!?」


 村中が大パニックになる中、騒ぎを聞きつけた長老が杖を突きながらやってきた。彼は狂乱するトゥカと、その手にある壺のような石に残った謎の液体を交互に見つめ、ことの次第を察した。


「トゥカよ、お主が口にしたのはそれか」


「そうだよ長老~! これ飲むと、世界がハッピーだ~!」


 長老は覚悟を決めると、村人たちが見守る中、その液体を柄杓ですくって、すすっと一口飲んだ。


「……ウホッ!」


 長老の目が見開かれ、その顔がみるみるうちに赤く染まっていく。村人たちが悲鳴を上げた。


「長老まで!?」


「どうだ!? 死ぬか!? 長老ぉぉぉぉ!!」


「いや……これは……」


 ふらりと立ち上がった長老は、おもむろに杖を放り投げると、火の前でおぼつかない足取りながらも、荘厳な舞を舞いだした。そして、満面の笑みで宣言した。


「これは『楽しくなる水』だ!!」


「うおおおお!?」


 その一言が、全ての警戒心を吹き飛ばした。村は、再び熱狂の渦に包まれた。人々は我先にと『楽しくなる水』を飲み干していく。


 飲んでは腹を抱えて笑い、


 肩を組んでは歌い、踊り、


 やがて力尽きては、その場でつぶれて眠りこけた。


 村には、かつてないほどの陽気な喧騒と、解放的な笑い声が響き渡った。翌朝、ほとんどの者がひどい頭の痛みに苦しむことになるとも知らずに。


「なあ、これ、なんて名前にする!?」


 誰かが尋ねた。


「うーん……くさいし、甘いし、ふわふわするし……」


 酔いの残る頭で考えながら、トゥカが呟いた。


「『さけ』……かな? なんか、そんな感じがする」


「『さけ』!! それっぽい!! いい名前だ!」


 こうして、人類最初の酒は発見された。


 トゥカの肩書きには、新たに『さけの神官』が加わった。そして村には、宴と笑い声、そして二日酔いという、ちょっぴり厄介で、だけど人間らしい文明がもたらされたのだった。


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