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第5話 はじめてウソをついた人

 世界は、驚くほど豊かになった。村の広場では、今日も神聖な火がパチパチと音を立て、女たちが焼くタコの香ばしい匂いが漂っている。男たちはトゥカの発見した石器を丁寧に研ぎ、次の狩りに備えている。その足元では、すっかり村の一員となった犬たちが、おこぼれの骨を幸せそうにかじっていた。それは、誰もが満ち足りた、穏やかな午後の光景だった。


 そんな平和な村の中で、一人の少年がそわそわと辺りを見回していた。村の少年、ピリカだ。彼は食いしん坊で、いつもお腹を空かせている。今日も、分配された焼きたての肉を手にしていたが、その視線は食料を管理している棚に釘付けになっていた。


(うへへ……今日はトゥカ兄ちゃん、石器に夢中だ。誰も見てないから、もうちょっとだけなら、バレないかな……)


 ピリカは犬のように素早く動き、こっそりと棚から肉を二切れ、余分に抜き取った。そして、誰にも見つからないよう、急いで自分の粗末な服の中に隠した。心臓がドキドキと高鳴る。これは悪いことだと分かっているが、温かい肉の重みが、それ以上の興奮を彼にもたらした。


 だが、その時だった。背後から、のんびりとした声がかけられた。


「ん? ピリカ。お前、今なんか隠さなかったか?」


 振り向くと、そこに立っていたのは、他ならぬトゥカだった。ピリカの心臓が、喉から飛び出しそうなくらい大きく跳ねた。まずい、見られた。どうしよう。頭が真っ白になる。


 その瞬間、ピリカの口から、自分でも信じられないような言葉が飛び出した。


「な、なにもないよ! なにも隠してなんかないって!」


 そして、彼は必死に話題をそらそうと、トゥカの背後を指さして叫んだ。


「ほ、ほら、トゥカ兄ちゃん! 犬! 犬が! あっちの岩陰に、でっかいタコが落ちてるぞって言ってる!」


「ウホッ!? 本当か!?」


 純粋なトゥカは、ピリカの言葉を微塵も疑わなかった。彼は目を輝かせると、「よし、見てくる!」と叫び、本当にタコが落ちているか確かめるため、岩陰に向かって全力で走っていった。


(ふふふ……うまくいった!)


 トゥカの背中を見送りながら、ピリカはほっと胸をなでおろした。そして、隠していた肉を取り出すと、勝利の味を噛みしめるように、むしゃむしゃと食べた。ほんの少しだけ胸がチクリと痛んだが、満たされた食欲がすぐにその痛みを忘れさせてくれた。


 だがその夜、事件は起こった。


 夕食の分配の際、食料係の男が困惑した声を上げた。


「おかしいな……肉の数が合わないぞ? 今日の獲物と村の人数を考えたら、一切れ足りないはずがないんだが……」


 その一言が、平和だった村にさざ波を立てた。人々はざわめき始める。


「数が合わないだと? そんな馬鹿な」


「もしかして、タコの神の呪いでは!? 我々が獲りすぎたから怒っておられるのでは……」


「いや、火の神の怒りかもしれん! 最近、火の扱いが雑になっていたから……」


 人々の不安は瞬く間に広がり、やがてそれは神々の怒りという、抗いようのない恐怖へと変わっていった。このままでは村に災いが訪れるかもしれない。事態を重く見た長老は、神聖な火の前で村の集会を開くことを宣言した。


 燃え盛る炎が、集まった村人たちの不安げな顔を照らし出す。誰もが押し黙る中、皆の視線は自然とトゥカに集まった。彼ならば、この不可解な現象の意味を解き明かしてくれるはずだ。


 トゥカはしばらく黙って炎を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。


「……俺は、見た。昼間、ピリカが、なにか隠しているのを」


 その言葉に、全ての視線がピリカに突き刺さる。ピリカはびくりと体を震わせ、顔を真っ青にした。


「え!? ち、ちがうよ! ぼ、ぼくじゃない! なにも隠してない!」


 必死に否定するピリカを、トゥカは真っ直ぐな目で見つめた。


「でも、ピリカ。お前、俺に会ったとき、『なにもないよ』って言ったよな?」


「う、うん……言ったよ……」


「それ、本当だった?」


 トゥカの問いかけは、刃のように鋭く、それでいて静かだった。ピリカは、その真っ直ぐな視線から逃れることができなかった。


 ピリカは、黙った。彼の頭の中では、昼間の出来事がぐるぐると渦巻いていた。肉を隠した時の高揚感。トゥカを騙した時の安堵感。そして今、村中の人々に責められる恐怖。様々な感情がごちゃ混ぜになり、彼の小さな胸を張り裂きそうにしていた。


 やがて、その目から大粒の涙がこぼれ落ちた。そして、しゃくりあげながら、か細い声で告白した。


「……ご、ごめんなさい。ぼく、ウソつきました。肉を、隠して、食べました……」


 ピリカの告白に、村は水を打ったような静寂に包まれた。人々が衝撃を受けたのは、彼が肉を盗んだという事実ではなかった。それ以上に、彼らが聞いたことのない、未知の言葉に心を奪われたのだ。


「ウソ……だと……?」


 長老が、震える声で呟いた。


「ウソとは……なんだ? それは、なにかの神の名前か?」


 村人たちが困惑する中、トゥカが静かに言った。


「いや、たぶん違う。ウソは……『ほんとうじゃないことを言う』こと、だ」


「そんなの、ありなのか……? 言葉は、本当のことだけを伝えるためのものではないのか……?」


 村人たちの常識が、ガラガラと音を立てて崩れていく。その時、長老がゆっくりと立ち上がり、深く、重い声で言った。


「それは……知恵だな」


 村中が「えっ!?」という驚きの声に包まれた。


「長老! いいのかよ、そんなの! トゥカ様を騙したんだぞ!」


 興奮する村人を、長老は手で制した。


「もちろん、ピリカのしたことは良くない。皆の肉をこっそり食べたのだからな。だが、『ウソ』そのものは、ただの悪ではない。よいウソも、わるいウソもある。だが、どちらも自分の利益や目的のために、頭を働かせた結果だ。それは紛れもなく、知恵の芽にはちがいない……」


 そして、長老は続けた。


「ウソは、何かのはじまり、なのかもしれんな……」


 こうして、ピリカは罰せられる代わりに、『知恵の少年』と呼ばれるようになった。不名誉なような、名誉なような、不思議な称号だった。


 そしてこの日を境に、村には「言葉には裏がある」という新しい概念が生まれた。


 火、タコ、犬、石器、そしてウソ――。


 物理的な発見だけでなく、人を欺くという最初の知恵の誕生によって、世界はまた、ひとつ複雑に、そして賢くなったのだった。


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