第2話 ぬるぬるの海の神
火のある生活が始まってから、村の夜は変わった。かつて闇と寒さに怯えていた時間は、今は炎を囲んで語らう安らぎのひとときとなった。焼いた肉の味を知った人々は、もうあの硬く冷たい生肉を口にしたいとは思わなくなっていた。全ては、トゥカがあの日、木の棒を回し続けたことから始まった変化だった。
その日、火の神官として崇められるようになったトゥカは、一人で海を見ていた。洞窟から少し離れた、ごつごつとした岩が連なる海岸だ。ざあざあと寄せては返す波の音は、どこか心地よい。潮風が彼の頬を撫でると、その湿った空気の中に、微かな塩の匂いが混じっていた。
(なんか……海の中にも、うまいもんがある気がするんだよな)
陸の幸は、火のおかげでその真の味を解放された。ならば、この果てしなく広がる海の中にも、まだ我々の知らない神の恵みが眠っているのではないか。彼の尽きることのない好奇心は、すでに次なる探求へと向かっていた。
もちろん、村では昔から魚を獲って食べることがあった。しかし、水の中を素早く泳ぎ回る魚を捕らえるのは至難の業だ。運良く数匹が網にかかっても、村人全員の腹を満たすには到底足りない。もっとこう、手軽に、そして腹一杯食べられるような海の幸はないものか。
トゥカが岩場の縁に立ち、透き通った水の中を覗き込んでいると、他の村人たちも何人かやってきた。彼らもまた、トゥカが何か新しいことを始めるのではないかと、期待と興味の目で彼を見守っているのだ。
そのうちの一人が、水の中を指さして声を上げた。
「見ろよアレ、気持ちわりぃ……!」
その視線の先、浅瀬の海底に広がる岩盤に、何やら奇妙な生き物がへばりついていた。それはぬるりとした灰色の塊で、そこから何本もの手のようなものがうねうねと動いている。村の誰もがその存在は知っていたが、あまりの異様さから、誰も獲ろうとはしなかった存在だ。
「足が多いぞ! 八本もある!」
「目が二つもあるぞ! なんて不気味な!」
「いや、目は二つで普通じゃね?」
冷静なツッコミが誰かから入ったが、すぐに別の声にかき消された。
「それにしても、岩に吸いつくのはキモいな! 呪いの生き物に違いねぇ!」
村人たちが口々に気味悪がるその生き物を、トゥカは食い入るように見つめていた。確かに、見た目は褒められたものではない。だが、彼の目には、それがまったく別のものに映っていた。
「うまそうだな」
ぽつりと呟かれたトゥカの言葉に、周りの空気が凍りついた。村人たちは「こいつは何を言っているんだ」という顔で、一斉にトゥカを振り返る。
「は?」
「なんかこう……ぬるっとしてるけど、焼いたらきっと、うまそう」
確信に満ちたトゥカの言葉に、一番近くにいた男が血相を変えて叫んだ。
「バカかお前は! あんなもん食ったら呪われるに決まってるだろ! 火の神官様ともあろうお方が、何を考えてるんだ!」
「呪われるかどうかは、食ってみなきゃ分からんだろ」
トゥカはにやりと笑う。
「じゃあ試してみるか」
言うが早いか、トゥカは腰に巻いていた丈夫な蔦の縄をほどくと、手頃な長さの木の枝の先に固く結びつけた。そして、狙いを定めると、岩場の縁から勢いよくその枝を海に突っこんだ。
枝の先端が、その『ぬるぬる八本ヤツ』に触れる。すると、八本足は驚くべき速さで枝に絡みつき、ぐいぐいと海底に引きずり込もうとした。
「お、おおっ! 力が強いぞ、こいつ!」
トゥカは踏ん張り、渾身の力で枝を引き上げる。水面から現れたそいつは、ぬらぬらと体をくねらせ、足を絡ませて抵抗した。見事、その『ぬるぬる八本ヤツ』を岩場に引きずり上げることに成功したが、トゥカは思わず顔をしかめた。
「ぬるぬるしてんな……」
岩の上に置かれたそいつは、なおも蠢いている。村人たちは悲鳴を上げて後ずさった。だが、トゥカは全く動じない。彼は小刀を取り出すと、その八本足の一本を切り分け、好奇の眼差しで眺めた。そして、何を思ったか、そのまま口に運んだのだ。
「――っ!!」
次の瞬間、トゥカは切り身を口から吐き出し、その場でゴロゴロと地面を転げ回った。口の中に広がったのは、猛烈な生臭さと、ゴムを噛んでいるかのような硬さ、そして塩辛いだけではない、形容しがたい不快な味だった。
「おい! 言わんこっちゃねぇ! やっぱり呪いの生き物なんだ!」
「トゥカ様が! トゥカ様が苦しんでおられるぞ!」
村人たちが大騒ぎする中、トゥカはぜえぜえと息を切らしながらも、むくりと起き上がった。その目は、まだ死んでいない。
「ま、まだだ……まだ終わらん……これは……焼いたらうまくなる予感がする!」
その瞳に宿る確信に満ちた光を見て、村人たちは言葉を失った。この男の探求心は、一度や二度の失敗では揺るがないのだ。
トゥカは残りの『ぬるぬる八本ヤツ』を抱えると、村の広場へと戻った。そして、皆が神聖なものとして崇める『火』の上に、それを無造作に乗せた。じゅう、という音と共に、灰色の体から水分が蒸発していく。
「ぬるぬるのくせに、いいにおいがする……」
誰かがぽつりと呟いた。生臭さは消え、代わりに食欲をそそる香ばしい匂いが立ち上り始めていた。そして、見る見るうちに、不気味だった灰色の体は、鮮やかな赤色へと変わっていった。その劇的な変化を、村人たちは固唾を飲んで見守っていた。
十分に火が通った頃、トゥカは炙ることでくるりと丸まったその足を一つ、手に取った。そして、今度はためらうことなく、大きな口でがぶりと噛みついた。
「――う、う、う……うまいっ!!!」
トゥカは感動のあまり、天を仰いで絶叫した。さっきまでの不快な食感は完全に消え、プリプリとした心地よい歯ごたえが口の中で弾ける。そして、噛めば噛むほどに、濃厚な旨味がじゅわっと溢れ出してくるのだ。これは、ただの魚とは全く違う、新しい次元の美味さだった。
「うまいのか!? 本当にうまいのか!?」
村人たちが半信半疑で尋ねる。
「うまいぞ!! これは神の恵みだ! さあ、食ってみろ!!」
トゥカが差し出した赤い足を、村人たちは恐る恐る、しかしその匂いには抗えずに、一口ずつ食べていった。そして、食べた者から順に、その表情が驚愕と喜びに変わっていく。
「本当だ! うまい!」
「なんだこの歯ごたえは!」
「噛むほどに味が出るぞ!」
気がつけば、岩場には『八本ヤツ』を探す人々で長い列ができていた。あれほど気味悪がっていたのが嘘のように、誰もが夢中でその新しい味覚の虜になっていた。
その日の夕食後、火を囲みながら、村の長老が満足げにトゥカに尋ねた。
「トゥカよ。この新しい神の生き物は、我々はなんと呼べばよいかの?」
村人たちの視線が、再びトゥカに集まる。彼は少し考えてから、口を開いた。
「そうだな……ぬるぬるで、岩に吸いついて、焼いたら赤くて、うまいやつ……」
皆がうんうんと頷く中、トゥカは何か閃いたように言った。
「タコだな」
こうして、海の神の使い『タコ』は、村のごちそうになった。
トゥカは、火に続き、海からも神の恵みを見つけ出した者として、再び村人たちから深く崇められることになったのだった。
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