第1話 はじめての火
トゥカは寒かった。骨の芯まで凍てつかせるような風が、粗末な獣の皮を容赦なく通り抜けてくる。吐く息はすぐに白く濁り、目の前の空気に溶けては消えた。洞窟の入り口から見える空は、重たい闇色に沈んでいる。また、長い夜がやってくる。闇と寒さが支配する、恐怖の時間だ。
思わず、かじかんだ両手を胸の前で強くこする。ごしごしと、皮が擦り切れるほどに。すると、じんわりとした熱が手のひらから生まれ、凍えた指先に温かい血が巡り始めるのを感じた。
(……あれ?)
トゥカは動きを止めた。手のひらには、まだ確かな熱が残っている。それはすぐに消えてしまう、儚い温もりではあったが、この身を苛む絶対的な寒さの中で、唯一、自らが生み出せた熱だった。
(これって、どこまで暖かくなるんだ?)
純粋な疑問が、彼の心に小さな火種のように灯った。もっと強く、もっと速くこすり合わせたら、どうなるのだろう。この小さな熱を、もっと大きくすることはできないのだろうか。
そんな考えに没頭しているトゥカの背後から、不意に野太い声がかけられた。
「おい、トゥカ。お前、まーた変な事をやっているな」
振り返ると、そこには村一番の戦士であるガンジが立っていた。その肩には巨大な猪が担がれている。鋭い牙を持つその獣を一人で仕留めてきたのだろう。滴り落ちる血が、彼の足元の土を黒く染めていた。村人たちが歓声を上げ、ガンジを取り囲んでその武勇を称えている。
この村では、獲物を取ってくる者こそが偉い人間だった。力が全てであり、日々の糧を腕っ節で稼いでくる者だけが尊敬される。その頂点に立つのが、このガンジだ。
「ああ、アンタか。なに、どこまで熱くなるのか試してみたくてな!」
トゥカが悪びれもせずに答えると、ガンジは呆れたように鼻を鳴らした。
「そんなことで腹は膨れんぞ。くだらんことをしていないで、たまには狩りにこいよ! 男だろうが」
ガンジはそれだけ言い残すと、英雄の凱旋のように、村の中心へと歩いていった。残されたトゥカは、その背中をただ見送る。狩りは苦手だった。俊敏な獣を追いかける脚力もなければ、巨大な獣に立ち向かう勇気もない。だからこそ、トゥカはいつも何か別の方法を探していた。この厳しい世界で、力以外で生き抜くための何かを。
その日から、トゥカの奇妙な探求が始まった。
ガンジの言葉など気にも留めず、彼は様々なものをこすり合わせ始めた。
まずは自分の手と手で、限界まで試してみた。しかし、やがて手のひらの皮がむけて真っ赤になり、焼けるような痛みが走るだけだった。これでは熱よりも先に、自分の手が駄目になってしまう。
次に試したのは石だった。硬い石同士を打ち付ければ、鋭い音と共に火花が散ることがあるのを、彼は知っていた。しかし、いくら打ち付けても、その小さな光はすぐに闇に吸い込まれて消えてしまう。こすり合わせても、冷たい石の感触が手に伝わるばかりで、熱が生まれる気配はなかった。
そして、トゥカは木に目を付けた。村の周りには、枯れ木がいくらでも転がっている。彼は手頃な木の板と、まっすぐな木の枝を拾い集めた。
最初は、ただがむしゃらに擦り付けた。だが、思うようにはいかない。湿った木では手ごたえがなく、硬すぎる木では傷が付くだけだった。来る日も来る日も、トゥカは木をこすり続けた。村の子供たちは遠巻きに彼を指さして笑い、大人たちは「またトゥカが始めた」と、生暖かい目で見守るだけだった。
それでも、トゥカは諦めなかった。何かが、あと少しで掴めそうな気がしていたのだ。彼は試行錯誤の末、硬い木の板に少し窪みをつけ、そこに乾ききった柔らかい木の枝の先端を当てて、両手で挟んで回転させる方法に思い至った。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
トゥカは雄叫びを上げた。それは狩りの成功を祝う雄叫びではなく、己の探求心だけを頼りに突き進む、孤独な男の魂の叫びだった。彼は体重を乗せ、一心不乱に、狂ったように木の枝を回し続ける。腕は痺れ、肩は抜けそうなほどに痛み、額から噴き出した汗が目に入って視界が滲む。
もう駄目かもしれない。そう思った瞬間だった。
ふわり、と彼の鼻先を、今まで嗅いだことのない匂いが掠めた。それは、何かが焦げるような、香ばしいような不思議な匂いだった。そして、木の板と枝が接する窪みから、か細い煙が立ち上っているのが見えた。
「ウホッ!?」
思わず、奇妙な声が漏れた。疲労も痛みも忘れ、トゥカは目の前の光景に釘付けになる。煙は徐々に濃くなり、黒く焦げた木屑の中から、ぽつりと、赤い光が灯った。それはまるで、闇夜に瞬く星のように小さく、しかし力強い光だった。
トゥカは、ほとんど無意識に、その赤い光に向かってそっと息を吹きかけた。すると、まるで命を吹き込まれたかのように、赤い光は揺らめき、応えるように輝きを増した。
彼は用意していた枯れ葉の塊を、慎重にその光に近づける。
次の瞬間だった。
ぼっ、と音を立てて、枯れ葉に赤い光が移った。それはもはや小さな点ではなかった。生き物のように揺らめきながら燃え盛る、黄金色の舌。――『火』だった。
「ウホホホホホッ!?」
トゥカはあまりの衝撃に腰を抜かし、尻もちをついた。目の前で、火は勢いを増し、パチパチと音を立てながら、周囲の枯れ草や小枝に次々と燃え移っていく。熱い風が彼の顔を撫で、今まで経験したことのない圧倒的な光が、薄暗い洞窟の周辺を真昼のように照らし出した。
そのただならぬ様子に、村の人々が何事かと集まってきた。
「な、なんだこれは?」
最初に声を上げたのは、誰だったか。人々は見たこともない現象を前に、立ち尽くすばかりだった。燃え盛る炎は、彼らが知るどんな獣よりも荒々しく、太陽のように眩しく、そして触れれば全てを焼き尽くしてしまいそうな、恐ろしい力に満ちていた。
「かっ、神だ! きっと神の顕現に違いない!」
一人の老人が、震える声で叫んだ。その言葉は、恐怖に囚われていた人々の心に、新たな解釈を与えた。理解できない、あまりにも強大な力。それは、人知を超えた存在――神の仕業としか考えられなかったのだ。
「とりあえず拝んでおけ! 神の怒りに触れてはならん!」
誰かがそう叫ぶと、人々は次々にその場にひれ伏し、揺らめく炎に向かって祈りを捧げ始めた。トゥカだけが、呆然と座り込んだまま、自らが生み出したその光景を信じられない思いで見つめていた。
やがて、誰かが炎の中に、食べ残しの肉の塊を放り込んだ。偶然か、それとも神への供物のつもりだったのか。肉はジュウジュウと音を立て、香ばしい匂いをあたりに漂わせ始めた。しばらくして、恐る恐るその肉を棒で取り出し、冷まして口にした者は、驚きのあまり目を見開いた。
「うまい! なんだこれは! 硬い生肉とは比べ物にならん!」
その一言が、新たな時代の幕開けを告げた。
村は、火で肉を焼くことを覚えた。熱によって調理された肉は、驚くほど柔らかく、風味豊かでとにかく美味かった。火は夜の闇を払い、人々を寒さから守り、獰猛な獣を遠ざけた。それはまさに、神の恵みそのものだった。
そして、その神なる火をこの世に呼び出したトゥカは、もはや「変な事をしている役立たず」ではなかった。人々は彼を畏敬の念を込めて、こう呼ぶようになった。
――火の神官、と。
ガンジでさえも、その前では黙って頭を垂れるしかなかった。トゥカは、人々の輪の中心で、燃え盛る炎をただ静かに見つめていた。手のひらをこすり合わせたことから始まった、小さな好奇心。それが、世界を根底から変えてしまったのだ。
炎はパチパチと音を立て、人々の顔を明るく照らしながら、いつまでも燃え続けていた。
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