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灰になる

作者: 宮岡莞爾

 小さなアパートに住んでいる。部屋には、低いテーブルと、背もたれが硬い椅子が一脚、それから台所の棚にはカップが二つ。ひとつは毎朝使うもの、もうひとつは来客用と決めているけれど、ほとんど来客がないので、もう半年以上手に取っていない。


 平日は職場まで歩いて二十分ほど。途中の道に小さなパン屋があって、いつも甘い香りが風に乗る。ある朝、その店先で、同僚のミユキにばったり会った。ミユキは急ぎの書類処理があると言い、慌ただしい顔をしていた。結局、私は彼女の分も引き受けた。頼まれたわけじゃない。ただ、差し伸べてしまうのが癖になっているのかもしれない。それでミユキはお礼を言ってパン屋を後にし、私はそのまま立ち尽くして、暖かいクロワッサンをひとつ、ふたつ買った。カウンター越しの店員は、私が受け持つ雑用など知る由もなく、にこりと微笑んでくれたが、その笑顔は他の客にも等しく与えられるものだろうと思う。


 オフィスで書類を整えていると、先日手伝った別の同僚が、「こないだ助かったよ」と軽い調子で言ってきた。私は首を縦に振り、机の下に足を引っ込める。だが、彼が去ったあと、私の机にはまた違う雑用が積まれている。誰もはっきり頼みはしないが、私が引き受けるだろうという空気がある。「どうして断らないの?」と声に出してみれば良いのかもしれないが、そうすれば妙な沈黙が訪れるだろう。それが怖くて、いや、自分でもよくわからない理由で、私はまたペンを握る。書類に向かううち、少しずつ胸の内に鈍い重さが増していく。まるで、だれかの靴の中に小石が入り込んだような感覚で、その小石は私の中でころころと転がっている。


 昼休み、休憩室でぼんやりしていると、隣の課の小柄な女性が私を呼んだ。彼女はお茶の淹れ方がわからないという。急須を傾け、急がず湯を注げばいいのに、と思うが口に出さず、ややぎこちなく手伝う。それは大した負担ではない。けれど、こんなふうに小さな要求や手間が集まって、私の一日は組み立てられるのだと意識すると、喉の奥が淡く熱を帯びる。


 定時を過ぎ、私はもう誰もいないオフィスで机に向かっていた。簡単な確認作業、軽い整理整頓――誰かが明日楽になるように、と思えば手は止まらない。終えて、静まり返った廊下を歩き、外へ出る。風が冷え、街灯の光が滲んでいる。いつしか自分が何者で、何をしたくて、なぜこんなふうに人の周りを掃除するみたいに動いているのか、見失いそうになる。


 帰り道、スーパーに寄って牛乳と卵を買う。レジ係は忙しそうで、私が代わりにカゴを整理すると、彼女は助かったように微笑む。店内に流れるBGMは単純なメロディで、耳障りではないが、心に響くわけでもない。


 アパートへ戻ると、部屋には私以外何もなく、息がしやすいような、逆に息苦しいような空気が漂う。静かすぎる沈黙を、私は机に向かうことで紛らせる。そこには一枚の白い紙と、古い鉛筆がある。特別な意図はない。ただ、胸にある重石――実態を掴めない、矛盾した衝動や、うまく言えない苛立ち――それらを言葉にできるだろうかと試すのだ。


 書こうとする。たとえば「親切」とか「気遣い」という平凡な言葉を浮かべる。でも、それは私の今夜の心情を切り取るには平坦すぎる。消しゴムで消す。紙にうっすら灰色の影が残る。次は「疲れ」や「依存」という言葉を試してみるが、それもまた陳腐に感じる。消すたび紙は擦り減り、皺が寄る。言葉がすべるたび、私の中の小石がちいさく跳ねるようだ。


 いくつも繰り返し、芯が減っていく。部屋の静寂が、私の筆圧で奇妙に響くような気がする。何度も書き、消し、言葉は定まらない。消された文字は、もう読めない薄墨の膜になり、紙面を不規則に染める。結局、芯はぽきりと折れ、紙には文字とは呼べぬ黒ずみと皺だけが残る。意味を示さぬまま、くしゃりと歪んだ紙片がそこにある。


 私はそれを眺める。まるで自分を映し出した地図のようだ。読むことができず、方向もわからないが、層になった擦痕には、私が日々費やした小さな行為が、溶け込んでいる気がする。歪んだ紙は決して綺麗とは言いがたいが、その薄暗い陰影が、誰にも言えない私の気持ちを受け止めているようでもある。


 部屋は静かで、窓の外には誰かがまだ起きている気配があるかもしれない。けれど私はひとりで、この紙を机に残し、ベッドへと向かう。起きたらまた、街灯の下、職場で、気づかれずに何かを整え、誰かを助けてしまうだろう。理由はわからないが、そうするしかないのだと思う。


 布団に潜ると、あの紙の皺が瞼の裏で淡く波打つ。誰にも読まれぬまま、消された文字たちが私を満たしているような、奇妙な安堵と痛みが混ざり合って、眠りを引き寄せる。


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